はじめに

価値はわかりにくい概念である.モノ自体に価値があるわけではないという現実に直面したことで,価値そのものではなく,それが動的に創造される過程に注目が集まることになった.そこでは価値自体に何らかの本質があるのではなく,限定された文脈の中でのみ決定されるとされ,結果的に価値を普遍的な構造に結びつけることができなくなった.

それでも,価値を議論するときに,何か安心できる拠り所を求めてしまいがちである.そのうちの一つが,価値を個人の主観に還元する方法である.しかし,価値は主観に対して現象学的に決定されるという定式化は,価値がひとりの人によって作られるものではなく,複数の人々,そして人以外のものが連携して共創するものであるという主張と矛盾する(山内 & 佐藤,2017).共創されるならば,価値は主観性に閉じた概念ではなく,相互主観性の水準で議論されなければならない.一方で,価値を安定させ,根拠を与えるために,「制度」という概念を持ち出すことは,制度を実体化する危険と背中合わせである.

また,顧客のニーズはひとつの拠り所となる.価値自体を語ることが不可能なとき,顧客にニーズがあり,それを満たすことだと考えれば,確かに安心して思考することができる.しかし,このアプローチは無根拠である価値に向き合うのではなく,それを避けて,顧客をニーズの充足によって自動的に満足するような藁人形として捉えているに等しい.

それでは我々はどのように価値創造を捉えるべきだろうか.まず価値自体の無根拠さが,価値を価値たらしめている原理であることを直視し,それを中心に据えた理論を思考しなければならない.

文化と価値

価値は文化と深く密接している.文化(culture)の概念は18世紀後半に生み出されたものであり,それは近代において社会から切り離され,独立した個人のあり方への反応である(Williams, 1958).文化とは,語源的には「耕す」ことに由来する.それが17世紀以降,精神を耕すこと,つまり洗練され,「文明化」されていることを意味するようになった(Elias, 1969).これは近代へゆるやかに移行する中で,社会によって階層化されて存在ではなくが,独立し自分の理性によって思考し行動する主体として捉え直された「個人」を何らかの形で社会の中に位置づけるために要請されたものである.つまり,文化とそれに密接に関連する文明化の概念は,他者よりも洗練されていること,すなわち価値があることを示すための道具なのである.

また,文化概念の成立には,18世紀後半以降,資本主義,そして産業革命が進展する中で,社会が分化し,人間の尊厳が危機にさらされていることを感じた人々が,自らを価値あるものとして認識するための拠り所を求めたという背景もある.人間性の「陶治」のための文化という考え方は,産業革命により分断された人間を最高のレベルに高めるための規範として考えられたのである(Williams, 1958).ここでは文化概念と芸術,特にロマン主義的芸術との関連を見ることができる.

価値は資本主義の初期の理論によって,交換価値や使用価値などの言葉で議論された(Smith, 1776).文化が資本主義のアンチテーゼとして生まれたことを考えるなら,文化と価値は無関係あるいは対立するものと考えられるかもしれない.しかし,価値は資本主義の中心原理でありながら,それを超えるものである.資本主義の原理は,使用価値やそれとは切り離された交換価値ではなく,余剰価値に求めるべきである(McGowan, 2019; Žižek, 1989).つまり,資本主義は,常に何らかの説明できない過剰によって駆り立てられ,次々と商品が生み出され,欲求を増幅させていく仕組みである.ここで使用のために必要な価値ではなく,必要性によっては説明できない価値が生じた.

このメカニズムはやはりマルクスの商品の物神性(commodity fetishism)の議論に求められる(Marx, 1867).つまり,商品は物質的な意味以上の何か神秘的な感覚を帯びる.これは価値が労働に基づくものであるというよりも,むしろそのような等価性の原理を超える余剰に基づくものであると考えるべきであろう.これこそが資本主義が生み出した特異な原理なのである.そして,この説明不可能な余剰をどのように説明するべきか? ここで同じく資本主義から排除され,資本主義の内部での説明をすり抜ける文化概念と結びつくのである.

資本主義が浸透した19世紀中頃に生み出されたのが,万国博覧会であり,パリのアーケード(passage)であった.珍しい異文化の品々や芸術的な品々が集められ,人々を魅了する.資本主義は価値の余剰を,文化から吸い上げることで発展していく.つまり,資本主義の美学化(aestheticization)である(Böhme, 2016; Reckwitz, 2012).市場に流通すると価値がなくなってしまうという資本主義の状態により,市場に取り込まれていない文化領域から記号や形式を借り受けることで,商品を魅力的なものにし,なんとか価値を維持してきた(Boltanski & Chiapello, 1999).資本主義は常にその外部の過剰を必要としている.そして,この過剰を帯びた商品は欲求を増幅させ,満たされることのない欲求として拡大していくことになる(Böhme, 2016)

つまり,価値を何らかの論理的に説明可能な目的手段の連関で捉えることはできない.価値とは常に説明不可能な何かであり,それが現在の資本主義社会においては,文化に見出されることになる.そして,この文化概念自体も,他者に対して洗練されているという価値の原理に基づいているのである.よって,欲求を満たすという意味での価値は,余剰価値に駆動される欲望が考慮されていない資本主義以前を前提とした思考であり,価値概念としては不十分である.

このように,飽くなき欲望を刺激し,利益を上げる資本主義は批判の対象となりやすいが,それを単純に批判することは避けなければならない.ポイントはその欲望がどのように生み出されるのかである.ここで,文化を価値創造の基礎として捉える視座を提案したい.

価値創造

価値はどのように創造されるのか? ひとつの重要な視点は,価値とはその人の価値,つまり洗練されていること,より卓越化していることという意味での,文化と結びつくことである.この点は,「闘争」としてのサービスと呼んだ,著者らのサービス研究から導かれたものでもある.客にとってわかりにくく,試されるような緊張感がある鮨屋やバーなどのサービスの研究を通して,価値とは,提供される食べ物や飲み物,あるいはそこで満足感を覚えるような気遣いでは説明がつかない.そこでの価値は,客や提供者が自らを高めていく過程によって生じる.つまり,サービスの価値とは客が否定され,そこから自己を呈示し,承認を得る可能性を感じることで生み出されるという考え方である(山内,2015).これが文化に根差した価値である.

そうだとすると,価値創造は人々の自己表現に関わる.自己表現は,欲求を満たしたり,欠如を埋めて閉じるのではなく,むしろその人を開いていくことで実現する.そのような体験は,心地よいものというよりは,緊張感があり時には恐しい体験となる.

このような自己表現は,自己の内面から生じるものではなく,徹底的に社会的な水準で考えなければならない.そもそも人の自己は,他者への同一化,そしてそこからの分離によって可能となる複雑なものである(Lacan, 1973).つまり,人々の自己表現は,何らかの世界観を構築し,人々がそれに同一化することによってなされる.ここでの世界観とは,ある世界を支える観念としてのイデオロギーと同義である.イデオロギーは,人々に「呼びかけ」,人々はそれに「ふりむく」ことで,特定の存在に「主体化」されていく(Althusser, 1970).しかし,このイデオロギーは単なるアイデアではなく,その背後には権力がある.

イデオロギーの呼びかけが機能するためには,人々がそれを欲望しなければならない.その欲望は,既存の意味のシステムからはみ出す「無意味」によって駆り立てられる.意味のシステムを逃れるものは,意味が与えられない無意味な過剰として,つまり謎として現われる.例えば,映画を見るとき,謎があるからこそ次のシーンに駆り立てられる(McGowan, 2008).この謎がなければ欲望は生じない.そして,この謎は意味をすり抜け我々の現実を脅かす,トラウマ的なものとして現前する(Žižek, 1989).このトラウマに人々が向き合うためには,ある程度閉じられた現実が構築されなければならない.これがひとつの世界観となる.

人々の自己表現にはこのような世界観を構築することが求められるが,その背後に説明不可能なトラウマ的な無意味の核があることが重要である.つまり,デザインのポイントは,この無意味の核をどのように表現するのかである.例えば映画であれば,映画が聴衆を見る「まなざし」として現われる(McGowan, 2008).我々は映画を観るとき,映画に見られると感じる.これは映画の中に何か説明不可能な無意味の謎があり,我々がそれに駆り立てられていることを意味する(Lacan, 1973).消費者が見ることで価値を享受するのではない.価値によって,消費者自身が見られ,解体され再構成されるのだ.その過程で,消費者はどのような人なのかを問われ,また,どのような人になっていくのかが価値として意味を持つようになる.

歴史をつくる

世界観のデザインには二つの方向性がありうる.ひとつは,トラウマ的な謎を飼いならし,円満なストーリーとして回収を目指すものであり,もうひとつはこの謎を謎のまま突きつけるものである.映画で言えば,前者は,恋愛成就によって謎のトラウマを解消してしまうハリウッドのメインストリーム映画である(McGowan, 2008).それは人々の一時的なニーズを満たし,既存の社会へと戻す.これに対して後者は,社会を閉じることの不可能性としての無意味(=謎)を提示することで,社会を開き,新しい社会の可能性を示す.そのような映画はすぐには理解されず,批判されることも多いが,その時代を代表する表現として歴史に刻まれていく.ある特定の世界観に,多くの人々が同一化し,その時代の表現となるとき,それはイノベーションとなる.

人々の要求を満たす,素晴しい体験を提供するという既存のモデルは歴史を扱わないが,人々が同一化する世界観の構築は,常に歴史に条件付けられている.既存の枠組みが解体され,新しい価値が生まれる契機は,人々の自己表現の行き詰まりにある.このような社会の潮流を感じ取り,人々の自己表現を提供するものが価値となる.この意味で価値は歴史的なのであり,歴史上新しいものに価値があるということではない.

これを踏まえると,企業家とはニーズを満たすことで利益を上げようとする人のことではなく,新しい世界を開示し,新しい時代を表現する者である.Spinosa, Flores & Dreyfus (1999)は,その営みを「歴史をつくること(history making)」と呼んだ.企業家に限らず,多くの人々を魅了し,社会を変革するイノベーションは,営利事業に限らず,政治運動でも,芸術でも常に歴史的である.

「歴史をつくる」上で重要なのがニーチェの価値転換(transvaluation)の考え方である.価値は特定の歴史的過程によって作り上げられた価値基準によって決められる.しかし,これは普遍的なものではなく,権力が介在する歴史の勝者によって生み出されたものである.新たに歴史をつくるには,このような価値基準を転換しなければならないが,そのやり方には注意が必要である.ニーチェは,ユダヤ・キリスト教の反動的な価値転換,つまり強いものを否定し,弱いものを肯定する道徳を作り上げたことを問題視した.他者を悪とみなし,自分を善だとする反動は新しいものを生み出さない.

創造には,否定ではなく,肯定による価値転換が求められる.「…なのによい」という表現は否定から始まり,現状の価値基準において劣っているが,それでもいいところがあるという主張である.そうではなく,「…だからよい」と肯定することが必要である.このように能動的に価値基準を転換することが,歴史をつくることになる.

この点は,さらに敗者の救済を主張したヴァルター・ベンヤミンの考え方と重なる(Horkheimer, 1942).勝者の歴史の中で忘れられてきた敗者を救済することが,新しい価値の創造になる.ベンヤミンは過去への跳躍が革命を生み出すという.もちろん,過去に戻りその過去自体を問題にするのではなく,過去が現在において救済されるのであり,過去の救済とはイマココの時間において歴史を書く行為である.それは現在の自分の抱える悶々とした敗者を救済することに重なり,同じ時代の多くの人の抱える敗者の救済でもある.

つまり,歴史をつくるということは,今の歴史によって構築されてきた既存の意味のシステムから排除されているもの,語り得ない無意味を肯定し,救済することで,新しい時代の表現を生み出すことである.このとき,イノベーションが生まれ,社会が変化する.

エステティック

このような価値創造は,エステティックと結びつく.エステティックスは日本語では,美学であり感性論である.18世紀半ばに感性を意味するギリシャ語のアイステーシスが,芸術や自然の美を語るときに美学に適用された(Baumgarten, 1750).まさに芸術という言葉が生み出された時期である.それまではアートは技(わざ)程度の意味であったが,この時期に人文学としてのリベラルアーツや職人の技能を意味するメカニカルアーツなどと並び,美しいアートが概念化された.現在の技術という意味も,その後,同時代に形成されていく.

この美学は価値創造の根幹に関わるのだが,2000年以降に始まるデザインの議論では,美学は排除されてきた.デザイン概念を拡張したい人々は,デザインは美しい見た目のことではなく,もっと深いものであると主張してきた(e.g., Krippendorff, 2006).さらに,デザイン思考は,誰でもデザインができることを主張するために,デザインが美術大学でトレーニングを受けた特別なデザイナーの特権であることを否定した.美学は,むしろそのような特別なデザイナーや芸術家の仕事を扱うものであり,デザイン思考とは相容れない概念とされた.

しかし,現在この美学に注目が集まっている.デザインの議論でも美学への言及が増え(Kimbell, 2011; Koskinen, 2016; Markussen, 2013; Tonkinwise, 2011),日本ではアート思考に関する議論が盛んになった.ヨーロッパでもEUが主導する,持続可能性のプログラムNew European Bauhausが「美しさ」を謳っている.なぜだろうか? これは美学を「見た目」に関するものであると誤解し,デザインが美学を手放したことで,本来それが持つ広い射程を全て捨象してしまったことに起因する.

美学は18世紀半ばに生まれたと説明したが,それを確立したのが1790年のイマニュエル・カントの『判断力批判』(Kant, 1790)である.これは1781年から始まる批判書の最後の3巻目にあたる.つまり,美学が形を見せたのは,啓蒙主義や,ロマン主義芸術の発生と同時期なのである.さらに先述の通り,資本主義と産業革命が興隆しつつあった時期でもある.まさに近代の開始時点で価値創造に関する全ての概念が出揃うことになる.

それでは,美学の射程とはどういうものだったのか? カントによると,美的判断とは,概念を伴う理解とは異なり,関心が入らないという.例えば,何らかの欲求という関心が入ってしまうと,それは美的判断ではない.美味しそうな料理の写真を見て,美味しそうだという関心を入れることなく,写真そのものの美しさを判断することが,美的判断である.同時に,道徳的な関心も入らない.例えば,美しい宮殿を判断するのに,貧しい民を酷使して作った宮殿は醜いと言うことは美的判断ではない.

この関心の宙吊りは,単に美しさに関する議論に留まらず,より広い射程を持っている.近代的なロマン主義芸術が生まれた背景は何だったのか? それは,社会が近代化し,個人が独立した存在となり,既存の社会の伝統やつながりから切り離されたことや,資本主義による道具的合理性が浸透していく中で,人間性を中心に据え直したことにある.これは神秘的なものを排除する啓蒙主義への批判でもあった.つまり,近代の開始時点では,社会を分化し分断していく傾向と,それに対して人間性を至高の価値とする傾向の両方が生まれたことになる.

関心の宙吊りは,資本主義における目的と手段の連関を中断し,啓蒙による論理的説明による合理性や,厳格で形式的な道徳に反発する.ここに美学独自の政治が見てとれる.『判断力批判』の5年後にフリードリヒ・シラーは,関心を宙吊りにする遊びの道徳を解き,「人間は美といっしょにただ遊んでいればよい,ただ美とだけ遊んでいればよい」と説いた(Schiller, 1795).厳格な道徳も,フランス革命後の恐怖政治を目の当たりにしたシラーにとっては,批判されるべきものであった.

この議論を踏まえて,ジャック・ランシエールは,美学と政治を直接的に結びつけた(Rancière, 1995, 2008).美学とは,感性に関わるものであるが,既存の感性的秩序を宙吊りにすることで,それまで感じられ得なかったものを感じられるようにする政治として定式化した.社会における資源の分配は,常に平等にはなされない.そこから排除される誰かが必ず存在する。その存在は感性的秩序の中から排除され,感じられず,語られなくなる.政治とは,平等な分配の目指すことではなく,既存の分配を解体することそのものなのである.だからこそ,エステティックは政治的企図なのである.同時に,エステティックとは調和の取れた美しい状態ではなく,そのような状態を解体する動きそのものである.

ここで,エステティックが,歴史をつくる価値創造と結びつくことが明らかになる.つまり,敗者とは感性的秩序から排除されたものであり,語り得ないものである.既存の秩序を解体することがエステティックであるなら,価値創造とはエステティックなのである.

デザインの議論が美学を排除したとき,この最も重要な美学の政治を排除してしまった.これが現在,デザイン思考が行き詰まる中で,美学に注目が集まる理由である.

事例: ユニクロ

価値創造において,社会をよく見て,時代の流れをつかむことが重要となる.その時代の人々の自己表現がどのように行き詰まっているのかを理解し,新しい時代の方向性を捉える必要がある.しかしながら,このように社会をよく見ることは難しい.ほとんどの人が社会をよく見ることができていない.それは,既存の枠組みが強固に価値を規定しているからである.このことを理解するために,ひとつの事例を見てみよう.

クリエイティブディレクター佐藤可士和氏が2006年から手掛けたユニクロのデザインに注目したい.佐藤氏は,ニューヨークのソーホーに旗艦店を作るというタイミングでユニクロのデザインを任された.ユニクロは,1998年からのフリースのヒットの後,2001年から海外に展開してきたが,十分に成功したわけではなかった.2006年のユニクロの米国進出においても,当初ニュージャージーのショッピングモールでの出店が期待通りには行かず,ソーホー店を皮切りに,ロンドン,パリなど新たなグローバル展開を計画していた(柳井,2012)

佐藤氏は,えんじ色の正方形に丸い書体でUNIQLOと書かれていた従来のロゴから,現在の赤の正方形に幾何学的な書体のロゴに変更した.さらには,カタカナで「ユニクロ」と書かれたロゴを新たにつくり,それをソーホーで使用した.現在は,このカタカナのロゴとアルファベットのロゴが横に並んでいる.そして当時のニューヨークのバス,地下鉄などにこのロゴを無数に反復させる広告を出し,ユニクロの大量生産を表現した.それ以外にも,店舗,商品ディスプレイ,紙袋など,全てをデザインし直した.

結果として,ユニクロは大成功し,グローバルなブランドとしての地位を確立し,現在の規模に至る足掛りを作った.2006年以前は,「ユニバレ」という言葉があったように,ユニクロを着ていることがバレることを嫌い,タグを切ったりしていたことを考えると,この変化はかなり大きい.これを可能にしたのは,佐藤氏が社会をよく見て,新しい世界観を提案し,人々の自己表現のあり方に新しい提案をしたからである.ではこのデザインのポイントは何だったのだろうか? なぜカタカナのロゴだったのだろうか? 大量生産の反復を前面に押し出したのはなぜだろうか?

2006年当時の人々の行き詰まりは,2000年を超えて,90年代を牽引したIT技術の進歩の停滞と,インターネットで接続したことで世界が一様で小さく感じられるようになったことにある.つまり,社会の進歩が感じられず,全ての人がフラットに独立した原子状の個人になった感覚があった.また,社会が次の段階に行くこと,目の前の社会の背後や別の場所に異なる社会が存在する可能性を感じられなくなった.このとき,人々は喪失感を覚えるのである.

2003年のソフィア・コッピラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』は,このような喪失感に溢れている.東京を舞台に,アメリカ人ふたりの恋愛を描いているが,両者とも資本主義の過剰に魅せられながら,それに乗り切ることができず,社会の中で孤立し喪失感を感じている.この映画は少額の予算で作られたにも関わらず,世界的に話題を呼んだ.つまり,その時代の感覚を掴み,定義したとも言えるだろう.日本語の台詞には字幕がつけられず,最後のシーンで主人公が話している言葉は聞こえない.監督にも聞こえなかったと言われている.

この喪失感は,無意味と結びついている.言葉がわからないこと,聞こえないこと,シーンが突如切られ,背景がボカされること.無意味であることの喪失感が表現されている.しかしこの映画の最後には,この無意味を受け入れることで,資本主義の過剰にも惑わされず,もとの生活にポジティブに戻っていく姿が表現されている.資本主義のサイクルで次から次へと新しい商品を消費するのではなく,自然体でいることがいいという感覚が表現される.

ユニクロのデザインに話を戻すと,カタカナのロゴは日本語を解さないニューヨークの人々にとって,同様の無意味を表現するものであり,それを中心に据えたものを消費することが時代の感覚と結びついたのである.実際に,同時代である2004年には英国でSuperdryというブランドが生まれている.ロゴタイプに意図的に間違えた日本語で「極度乾燥しなさい」と書かれている.また,当時東京では間違えたジャパニーズイングリッシュが書かれたTシャツを着ている日本人が話題になった.おそらくほとんどの日本人はそれらをカッコ悪い,間違いを正さないといけないと考えただろう.しかし,当時の文化的エリートは,それをカッコいいものとして受け入れたのである.

また,特別感がなく着ていることがバレて欲しくないというユニクロの否定的だったイメージを,あえてそのまま素直に表現することで,むしろ自然体でベーシックであることの方がカッコいい,という価値転換を実現した.これもハイブランドで全身を固めることがどこかカッコ悪いと感じ始められた時代の潮流を捉え,それとは真逆のベーシックなものに可能性を見出していたといえる.

さらに,同じものが反復して並べられていく大量生産の表現は,フラットになった社会そのものを端的に表現していた.通常,デザイナーは批判の対象となりやすい大量生産をそのまま表現することを躊躇するのではないだろうか.ひとつひとつを丁寧に作っていることを表現し,大量生産であることは隠すことが多いだろう.しかし,当時は逆にそれが人々の感覚を捉えた表現であった.

佐藤氏のデザインは,まさに社会の変化をよく見て,捉え,時代を表現したと言える.佐藤氏が最初に書いた本のタイトルは『佐藤可士和の超整理術』である(佐藤,2007).この中で,佐藤氏は自分に表現したいことがあるのではなく,答えは相手の中にあり,自分はそれを整理するだけだと説明した.まさに,佐藤氏の創造性は,個人の内面から湧き上がってくるものでもなければ,無理やり新奇性のある面白いアイデアを発想することでもない.ただ社会をよく見るということである.しかし,先述の通り,多くの人は社会を見ることができていない.

方法論: エステティック・ストラテジー

以上の文化の余剰価値,欲望を駆り立てる謎,価値転換,敗者の救済,感性的秩序の宙吊りを踏まえて,我々はエステティック・ストラテジーという価値創造方法論を提案している.この方法のポイントは,価値創造を起こすために,社会をよく見ることである.ブレインストーミングや発想法によって個人の内面から面白いアイデアを思いつくことではない.あるいは,現場に行ってそこで問題を発見することや,利用者のニーズを発見することでもない.

社会を見ることは,歴史を捉えることでもある.すでに見たように,世界観としてのイデオロギーを理解すること,それを歴史の中に位置付けること,そして新しい時代の表現を考えることが求められる.そのために,生れつつある様々な事象をよく見て,それらの世界観の背後にあるイデオロギーを敏感に捉える方法が必要となる.我々はそれを,「イデオロギーの星座」と呼んでいる.イデオロギーは先述したとおり,それぞれの世界を支えるものであり,人々の主体を形成するものとしての,アルチュセール,ジジェクの議論に依拠し(Althusser, 1970; Žižek, 1989, 1994),星座は,ヴァルター・ベンヤミンの提案する方法論に依拠している(Benjamin, 1928).ベンヤミンは時代におけるとある理念と事象(現象)を星座と星のアナロジーとして捉え,理念は構成要素としての事象の布置(=星座)として現前するとした.これは,日常生活において我々に呼びかけてくる具体的な事象(=星)そのものに本質的な意味があるのではなく,一見バラバラに見える個別具体的な事象の配置によって浮かび上がる朧げな観念としてイデオロギーを捉えることを意味しており,社会を読み解く一つの方法論として示唆的である.また,ベンヤミンは,このとある時代における支配的な意味のシステムからこぼれ落ち,取るに足らないもの,無意味とされた敗者の「救済」を追求する.このことも既存の枠組みの中で人々を満足させて閉じてしまうのではなく,新しい世界へと人々を連れ出すエステティック・ストラテジーの理念と符合する.

ここでは詳しくは解説できないが,具体的な星座作りはまず新しい時代のきざしとして見え始めている事象を選ぶところから始まる.そして,それと同じような世界観を表現する別の事象を横に並べて線を引いていく.これは完全には一致しない事象の差異を特定するための作業である.

例えばYouTubeでよく見られる「丁寧な暮らし」と呼ばれるカテゴリの動画を事象としてまず選んだとしよう.この動画は,木の家具を中心とし,白を基調としたシンプルな内装にあまり大きくない小綺麗な部屋で,朝起きて丁寧にコーヒーを淹れ,朝食を作り,ヨガをして読書をするような世界観である.一人で軽やかで,特に追いたてられることのない余裕のある自然体が表現されている.

これとよく似た世界観を表現したものとして,例えば田舎暮らしの動画がある.これらの動画は田舎の自然と都会的なスピードからの自由が表現されているという意味で重なりが大きいが,都会的な日常生活のループの中で充実することを表現する丁寧な暮らしとは異なり,田舎に移住するということはそのような生活からの脱却も示唆している.他にも自分で糠床をつくるような手作り系の動画やコンポストをしているエコ生活系の動画も重なりが大きいが,これらは昔ながらの手作りや持続可能性という主張を含んでいるため,余裕のある自然体とは異なる部分もある.同じ理由でナチュラルクリーニング系の動画とは少し距離感がある.

このように似た事象の背景にあるイデオロギーをさらに際立たせていくために,これらとは相容れない事象を考えることも有効である.例えば,丁寧な暮らしは,意識高い系のように上を目指す態度や,一世代前の完璧な主婦のように飛び抜けて目立つような特別感とは距離がある.しかし,社会の新しいきざしは過去の完全な否定として立ち現れる,断絶した事象ではない.実際に,丁寧な暮らしと近しい,片付け系の動画において,調味料を統一感のある容器に移し換えるような世界観は,完璧な主婦像の世界観とかなり近い.社会をよく見るためには,このような微妙なニュアンスを掴み取っていくことが重要である.

このように事象(星)を配置し,線を結びつけていくことで,星座が浮び上がってくる.ベンヤミンは極端なものが配置されることで,星座が浮び上がり,個々の星が輝き出すという.つまり,個々の事象はそれ自体は取るに足りないもののように見えるが,星座に位置付けられることで社会の中に埋め込まれていく.そして,社会の向かっている方向が見えてくる.例えば,一人の気楽さ,本物の自然ではなくイメージとしての自然,上昇志向からの脱却などは時代の表現として重要であることがわかる.

ここまでの作業例として挙げた,既にカテゴリとして名称が与えられ,広く認識されているような事象は,新しい時代の兆しとしてわかりやすい半面,すでに意味のシステムの中に取り込まれつつあることを意味している.そこで,ここからは既存の意味のシステムからはみ出す敗者を特定していく.そのようなはっきりとは語り得ない敗者は既に作成した星座の中に潜んでいる.それを際だたせていくために,新しく星を追加し星座を拡充していく.その際には自分自身が感じる違和感を起点に探していくことが重要である.

例えば,重曹やセスキ水などで掃除をする「ナチュラルクリーニング」には化学的な用語が散見される.このような自然と人工との異質な組合せは他の事象でもよく見られるようになっている.料理研究科のYoutuberが,味の素を使ったり,シャンプーでもYouTubeで化学的な成分が議論されていたりする.自然に優しい食べ物にこだわるヴィーガンにとって,粉を水に溶いて飲むような完全食は,人工的であるがゆえに自然であるという複雑な世界観を表現している.

このように,すでに星座の中に含まれているが,既存の意味のシステムでははっきりと語り得ないものが見え始め,それが新しい表現として力を得つつあることを特定していく.

そして,このイデオロギーの星座によって読みといたこれらの新しいきざしが次の時代の新しい表現のヒントとなる.実際に企業がこの方法論で具体的な表現に落とし込む際には,自社あるいは事業やブランドのデザインにおいて,どのような特定の敗者を救済することが重要なのか,自分独自のストーリーを語れることが重要となる.逆に言えば,このような敗者を見つけることが肝要である.その上で実際にビジュアルをデザインしたり,キャッチコピーを考えるのは,クリエイティブの専門家と協業すればいい.

おわりに

価値は意味のシステムには収まりきらない無意味に根差している.ゆえに価値の議論は,過剰な無意味に関わる文化やエステティック概念を避けることができない.このような無意味と向かい合わず,価値を何らかの枠組みの中に固定化することは,価値の理解から遠ざかることになる.

イノベーションを生み出すことは,既存の意味の枠組みには収まりきらず,はっきりと語り得ない無意味の敗者を救済することを意味する.つまり,イノベーションとは社会批判であり,解放の政治なのである.企業がイノベーションを起こすということは,利益を上げるために,人々のニーズを満たすことではない.むしろ,社会を解体する政治と考えるべきである.

これは企業が人々の欲望を喚起し、利益を上げるべきではない,という主張ではない.むしろ,このような解放の政治とは,欲望を消し去るのではなく,欲望をより深めることと結びつく.時代を画すイノベーションは,その時代の人々にとって無意味のトラウマ的核を見せつける.ハッピーエンドで人々を満足させ,トラウマから目を背けさせるものではない.このようなイノベーションは多くの人の欲望を深め,大きな収益をもたらすだろう.

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山内裕 (2015).「闘争」としてのサービス—顧客インタラクションの研究.中央経済社.
山内裕,佐藤那央 (2017).ユーザー〈脱〉中心サービスデザイン.サービソロジー,3(4),10–15.

著者紹介

山内 裕
京都大学工学部情報工学卒業,同情報学修士,UCLA Anderson SchoolにてPh.D. in Management.Xerox Palo Alto Research Center 研究員を経て,京都大学経営管理大学院に着任.https://yamauchi.net

佐藤 那央
京都大学経営管理大学院特定講師.京都大学経営管理大学院修了(MBA),京都大学情報学研究科修了(PhD),京都大学デザイン学連携プログラム修了,北陸先端科学技術大学院大学助教を経て現職.

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