綿善旅館に関わられることになった背景およびこれまでの取り組み

増田 小野雅世様が若おかみ(インタビュー時点*1.2021年12月10日から,おかみへ)として綿善旅館に関わられることになった背景やこれまでの取り組みについて教えてください.

小野 綿善旅館に関わることになった背景としては,ここが実家だからということです.ただ,元々は京都が嫌いで,旅館に対する失望というものがありました.具体的なエピソードをひとつお伝えすると,小学生の時に事務所で宿題をしていますと,父も母もいない時に,事務所で働く従業員が話しかけてきて,小一の私に「ボーナスあげて,とお父さんに言うといて」と言ってきた,しょうもない大人がいるみたいなことがありました.波風立つ京都のこの地で育ってきた七歳児は,ニコニコ笑いながら「言うとくわ」ということで引き受けて,父に伝えたのはその二十年後ぐらいだから,嘘はついていないですよね.このようなすごい情けない大人を小学校一年生の時点でこの旅館でいろいろ見てきて,旅館で働きたいとは全く思わず,また,この場所にいたくないといった嫌悪感すらありました.
この旅館内で見るダサい大人から逃げたくて,綿善を出るためにはどうやったらいいか,ある程度知名度のある会社に入らなければ親が認めてくれないという思いがありました.その中の候補として,初めは銀行は入っていなかったのですが,面接で呼んでいただく機会がありました.銀行は興味ないですと言っても,毎回呼ばれるので,最後は,「そんなに言うてくれるのだったら入ろうかな」みたいな軽いノリで入りました.ただ大後悔しました,厳しい業界なので.
銀行で配属されたのは法人営業でした.そこで,営業成績を上げられないと価値がないというように刷り込まれて,おかげさまで3年目には営業成績を出せる一応の兵隊さんが出来上がりました.ただ,その時の刷り込みの影響力は強いです.新卒での社会人.生まれたての雛は親を見て育ちますが,その親が稼げないと価値がない,という考えでした.
その一方で,自分は綿善旅館の三姉妹の長女で,跡継ぎという見えない責任感みたいな,先祖からの圧力,その見えない圧力に耐えられないというか,自然と綿善旅館に戻るというような思いが生まれてきました.その中で,将来,旅館を継ぐとなった時に,専業主婦層もお客様になり得る,きっと多いだろうと.そこで,社会人だった私は専業主婦の立場になってみないと,その考えが分からないと思い,一度,専業主婦をやってみたいと考えたんですね.
その頃,夫に専業主婦をやってみたいということを言ったら,勝手にという感じだったので,そうさせてもらいました.ただ3日で飽きました.ずっと人生忙しくしか生きてきたことがなかったので.大学時代はアルバイトとサークルとか.社会人でも銀行での業務が待っていたので.まずそんな生活をしていた人が,夏休みでもない,ただの主婦という期間を与えられたら,朝の3時間ぐらいで全ての家事が終わる.晩御飯作りまで終わってやることがないんですよ.
その時に,たまたま綿善旅館の大浴場の改装,一部改装があって,リニューアルオープンのタイミングで,綿善での仕事をしないかと父親から声がかかったんです.私も,そういう心境の中での声掛けだったので,もう働きたいが勝ってしまって,アルバイトとして週3程度だったら戻るみたいなことから,またこちらに入ったという経緯です.
2011年の4月に,アルバイトで週3とかで綿善旅館に入っていたんですけど,だんだんと仕事にのめり込んで週5ぐらいになりました.このような形で3年働いて,子供ができて産休・育休が終わると,父である社長が,私を取締役にするという事態が起きていました.
2015年には,この旅館を改革するいろいろな取り組みを進める中で,日本旅館協会の生産性向上モデル事業に選出していただきました.そこで官公庁等に行く際に,何の肩書もないのもちょっとということで,そこから名刺に若おかみという肩書が付いたということです.選出されたモデル旅館は,8旅館ありました.その全国の8旅館あるうちの成果があった2つの旅館として綿善旅館を選んでいただき,2017年に安倍晋三首相(当時)の前で,生産性向上国民運動推進協議会における成功事例として発表の機会を頂戴しました.
2018年も,まだまだこのような改革を色々続けていこうとしていたところ,改革反対や環境変化への反発もあり,綿善旅館のたくさんのスタッフが辞めるということが起こりました.夫も別の銀行にいたのですが,銀行から綿善旅館に入社してくれて,この頃から経営権みたいなものが社長から私たちの方にだんだん譲渡されるようになりました.
そして,2019年には,83日だったそれまでの従業員の年間休日を105日に広げるなどの様々な社内改革,働き方改革に取り組んできました.その最中,コロナ禍に入り,今という感じです.

綿善旅館におけるコロナ禍の影響

増田 新型コロナウイルス(COVID-19)は京都における宿泊客にも大きな影響を与えていますが,コロナ禍が綿善旅館の経営に与えた影響のその経緯について教えていただけないでしょうか?

小野 そのあたりの経緯は,これまでの外的な要因も絡んでおり,まず2017年の背景からご説明します.
2017年ぐらいから,京都市にホテルが乱立し始めました.綿善旅館のあるこの場所は,いろいろなところの中心にある,立地が良い場所ですが,ただ電車とかバスとか,全部10分ぐらい歩く場所にあります.この10分圏内に,別のホテルやゲストハウスが多く建ち並ぶようになりました.2017年は建築ラッシュという感じでした.お客さんの数も,努力せずとも沢山の方がお越し下さり,そのため価格もぐっと上げていました.
2018年は,出来上がってきたホテルとの価格競争に入っていきました.どうなったかというと,お客様の数は増えましたが,売り上げが下がってしまったんですね.経営陣や幹部スタッフはそれを分かっていました.その中で私だけが,「稼働率を下げてもいいから,価格を下げるのはあかん」とは言っていたんですけど,社長やその他幹部は稼働率を優先していました.私は冷静にそれはおかしいと指摘していたのですが,その体制は変わらずでした.
2017年より2018年は従業員は忙しかった.財務的なところを見てない人にとったら,忙しかったからボ―ナスは上がるよねって普通思いますよね.けれど,うちのその年の売り上げは下がっているし,利益ももちろん圧縮されていた.だから,「ボーナスは下がります」となったんです.これには,「みんな納得いかんは,それ」というようなことが,2017年から18年にかけて起きたんです.とはいえ,過去に比べれば売り上げ自体はよかったんですが.
2019年も似たような感じです.ただ,そこでも私が1泊の単価を下げるのは,嫌だと呪文みたいに言っていました.それでも前年からちょっと下がったか,同じぐらいでした.
2019年12月以降,感染症の動向について世界中でのニュースは見ていましたけど,初めはまだ宿泊にそこまでの影響が全然なく,そういうことがあるみたいだなとか言いながら,いつも通り忙しく正月を過ごしていました.1月が開けてきた時に,ちょっと予約減ってきたな,キャンセル増えてきたな,と言っていっていたら,3月に京都市内の大学でクラスタが出たというその風評で,それ以降の予約がキャンセルになりました.

増田 2020年3月からGoToトラベルまでは予約も入らないような状況でしたか?

小野 ないです.7月も8月も全然でした.8月に「天麩羅ナイト」という企画もしましたが,天麩羅ナイトは盛況.宿泊は全然.お盆も休館でした.「こんなん人生で初めてやなあ」とか言いながら,家族と過ごしていました.
GoToトラベルも制度自体は2020年7月から始まっていましたが,「本当にあるんですか,この制度」というぐらい全然動いていませんでした.GoToトラベルが東京で解禁になったのが2020年10月ですが,そのタイミングで,世の中やお客様が動き出しました.
2020年10月からは,まあマシかなみたいな.それでもしんどいですけど.11月の紅葉は,ドンピシャだったので動き出しましたが,リードタイム(予約日と利用日の間の日数)が普段は1カ月だったのが,3日,2日,1日とかになっていました.従業員の休みは事前に確保しているのですが,「え,こんなに直前にご予約が増えるの?!」みたいな感じになりました.1日前や2日前に急に増えます.みんなはこれまでの働き方が刷り込まれているのですが,それじゃ駄目だとなりました.あの時は,疲弊ですね.その時も,「もう予約受付を止めなあかん.接客クオリティも下がるから満室を目指すのをもうやめよう.これ以上部屋の販売を止めて,キャンセルが出たらその部屋売っちゃ駄目」と言っていたんですけど.幹部は「いやいや,今までのコロナで売り上げ立ってへんねんから,取り戻さないかん」と言って予約を入れちゃったんですよ.そしたらみんなだんだん疲弊して,遅刻する,遅刻する.そして遅刻した人にそうでない人が怒りをぶつける.雰囲気悪いみたいな状況になりました.

増田 それでは,GoToトラベルでの11月,12月は,現場がかなり大混乱していたという状況でしょうか?

小野 大混乱でした.助走があまりなく,いきなりピークを迎えた感じになったので.3日前になるまでは予約もすかすかだったりするんですよ.その時,私は子育て中心で,昼間の仕事をさせてもらっていたんですけど,自分が現場にいない分,やはり冷静なんですよね.しかも責任者だから,みんなの状況を見てて,「これはまずいな」というふうに思っていましたね.売上よりもそのことが心配でした.

増田 2021年1月に緊急事態宣言がでてからはどうでしょうか?

小野 そこからは,またほぼずっと休館です,2021年10月まで.2021年9月も,うちは全部休館です.

増田 その間は従業員さんも旅館の仕事がありませんが,従業員にはどういう対応をされていましたか.

小野 休業ということですが,その間,コロナ禍ではこんな取り組みをしてきました(表1).その場しのぎの売上とかは,実は全然考えていません.一貫して,ブランディングのことを考えています.ECサイトももうちょっとでできるんですけど,綿善をどう知ってもらうか,みたいなことで動いています.お弁当の販売とかもしていますが,これは売上を立てるためではなく,やればやるほど赤字なんです.ただ,まずスタッフが不安だった.この業界では結構珍しいんですけど,給料100%保証し続けているんですね.他の旅館の女将さんとかと話したら,色んな理由が有り80%保証や60%保証だということです.お客さんの宿泊があって,出勤があった日は給料100%になるから,みんなが危機感持って仕事するように,もう6割,8割にしたって聞くんです.うちはずっと100%にしていました.ただ,100%にしたら安心感と同時に生まれるのが,「これでいいや」という怠惰なところも出てきます.そこで,敢えてこういうコロナ禍でお弁当を販売するというようなことをやって,助走をやってるのかな,ストレッチのようなものです.
またここには,お客さんに喜んでもらうということを忘れないでほしい,という思いがあります.ですので,コロナ禍でやったことは,スタッフの手足が動いたっていうこと自体が目的になっているものも多いです.あとは旅館のブランディング.YouTubeチャンネルとか.今やっているところなので,あまりかっこいいものではないんですが,いろんなことをやっています.
このような試みは,その場の売上を上げるためじゃなくて,10年後,20年後を見据えた取り組みです.うちは今,191年ですけど,200年とか300年とか,この旅館があるために,今,どうしなければいけないのか,という視点が大きかったかなと思います.

表1 綿善旅館におけるコロナ禍で行った取り組み

コロナ禍における宿泊サービスの提供で得られた気づき

増田 コロナ禍での新しい試みの話がありましたが,宿泊の観点では,コロナ禍においてなにか新しい観点はありましたか?

小野 コロナ禍ですごく良かったことは,一部の期間を除いて,宿泊のお客様が満室になることはなかったということです.売上的には問題ですけど,これで何が良かったかというと,みんなが思い思いの接客ができるようになりました.今までは満室だから,この部屋に行った後,次にあの部屋に行って,あの部屋に行ったらドリンクを頼まれたみたいな.もうパニックの中で,とにかく作業として仕事をこなしていた.だから,今までは接客じゃなくて,その日の作業になっていたんじゃないかなと思っています.
でも,コロナ禍で,満室にならない中でできたのは,一人一人のお客様に対してクオリティの高いサービスを提供できて,それがお金じゃない,やりがいという言葉がありますが,やりがいみたいなものを実感して,みんなが仕事の中の,どういうポイントが楽しいかをそれぞれが見つける,改めて確認することができたというようなことがありました.

増田 今まではやはり宿泊客数が多いので,手が回らなかったということでしょうか?

小野 満室で27室で,和室は24室です.ワンフロア8部屋あるので,2人で8部屋を見ることになります.その日,会ったばかりの人の名前とか分からないし,全ては覚えられません.だけど,今は,「稼働率50パーセント宣言」というのを出していて,まだ異論が結構聞こえてくるんですけど,最大稼働率として2人で4部屋を見たらよいです,としています.場合によっては1人になるかもしれないですけど,これですと行き届くんです.ただ,今はまだ価格に反映させきれていない.やはりこれをするには,倍ぐらいの売り上げを立てないと,普通に考えたら無理です.まだ,そこまでには至らないものの,みんながどういうサービスをすればよいのかというところが,すごいクオリティが上がってきていて,お客様からのお褒めの言葉は本当に多いんですね.ですので,この一つ一つが,料金を上げていくという価格転化には,凄く大切なことで,今,その段階にいるということです.

増田 その場でお客さんが何かちょっと困っていることがあれば,柔軟に助けてあげられるようになっているのでしょうか?

小野 そうですね.そういうことは前からやっていたつもりでした.ただ,みんな,ちゃんとしたコミュニケーションというか,例えば,今までは口頭で説明してきただけだったものを,そうではなく資料を持って来たりとか,実は手に入っていた割引券,無料招待券とかもよく頂くのですが,お客様との会話の中から,スタッフがそのような割引券や無料招待券を取りに行くという余裕ができたり.また,状況を周りのフロアの人に共有するという余裕ができたりしています.この間,速報みたいなものが社内のスカイプに流れました.端末に,「ここの部屋の○○様は新婚さんです,昨日入籍されたそうです」というのが回って,そしたらみんな,そのデザートのタイミングで,フロントも客室も別のフロアの人もみんなでサプライズのお祝いに駆けつけるみたいなこともありました.昔だったら,何かやりたいけどできない.精いっぱいできることは電気を消して,蝋燭に火をつけたケーキを持って入るという普通のことしかできなかったのが,その辺は全然今違うところかなと思います.

増田 時間のゆとりみたいなところがないと,そういう対応をするのは難しいですか?

小野 できないと思います.できない.時間もだし,心にもだし.やはり余白がないと人って多分何もできない.特にこのサービス産業,自分がしてほしいことを相手にしてあげる,というのが当たり前のことになります.それ以前に,基本的な人としてのマナーというところも含めて,それができて当たり前なんです.そこから,更に余白がないとお客様のことを十分に見られない.あとは,従業員同士,思いやりも持てないのに,お客様の顔色なんて分かる訳ないですよね.そういうところが,衛生的な要因ですけど,安心して働いてもらえているからこそ,みんなのスキルの幅というか,目線がだいぶ広がったと思います.

増田 お客様からの言葉というのも増えているという話でしたが.

小野 増えました.中にはお叱りもあったりする.結構,お褒めが多いんですけど,お叱りでは,1つの部屋に夢中になりすぎて,他の部屋を忘れていたぐらいの,それはなぁ…みたいな.余白を使いすぎた,バランスが悪すぎたとかはありました.

増田 従業員の方々がサービスの提供における付加価値の付け方の1つとして,このような方向性があるんだ,というのに気づけたということでしょうか.

小野 はい,その点は良かったですね.また,スタッフみんな,それを楽しいと思ってくれる人たちばっかりで良かったなと思います.何も感じない人だったら多分,結局ずっと作業をしているので.

増田 マニュアル通りにやるだけの人もいますか?

小野 言われたことしかできない人とかも,一定数います.ただ,多くはそうではなくて,また,こういうことをやってもいいんだ,みたいなところに気づいてもらえたのが良かったかなと思います.

ソーシャルメディアの活用について

増田 ソーシャルメディアは,今,多くの人に使われていますが,ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションについては,どう取り組まれていますか?

小野 ソーシャルメディアに関して具体的な取り組みでいうと,例えば,YouTubeチャンネルでは,綿善がパンダを飼育しているという体でやっているものがあります.そのパンダが,うちの仕事を覚えようと奮闘したり,バドミントンを頑張ってみたり,キャッチボールをやってみたり,いろんな挑戦をしています.これは,修学旅行のお客様がいらっしゃるので,近づき易いような動画を作って公開しています.
後は,ラインスタンプの作成をしています.ラインスタンプは,クリエイターズスタンプと呼ばれていますが,素人が作ったら売り上げ1000円いったら良い方なんです.私たちは,やっとですが2300円にいきまして,まあまあです.ビジネスでやろうとしていたら全然駄目ですが.ただやはり,若い人,修学旅行のターゲットに向けては,このような形で,思い出してもらえるみたいな取り組みを行っています.
ツイッターやインスタグラムに関しては,その持ってる客層が違うというか,所属層が違います.とはいえ,うちもソーシャルメディア班がある訳ではないので,同じブログを各メディアで拡散するみたいな対応をしています.
この中でひとつだけ,ちょっと不思議なことをやりました.私自身がYouTubeとFacebookの番組を持たせて頂いて,半年間限定で,月に2回,京都にまつわるゲストをお招きしてトークするというような「打ち手会議」という30分のライブ配信をやりました.例えば,MKタクシーさんや300年続くお香屋さんの松栄堂さんにゲストに来てもらったりとか.ロストワークのFab Cafe Kyotoっていう面白い取り組みとか,足立病院の院長とかね.最終回にゲストで来てくれた福田千恵子さんは,ツーリストシップという言葉を作られて,それを広めたいということで,お客さん側も地元側も歩み寄りで,お互いに配慮しながらツーリズムを楽しみましょう,という証として,京くみひもを使ったブレスレットを作った方がいます.そのようなゲストを月に2回呼んで,半年間,12人のゲストに来てもらいました.これは旅館として対一般客にはつながりませんが,京都市や京都府とか行政系の人,ビジネスを綿善としたいなと思っている人が,これを見て,何となく綿善を理解してくれるみたいな.ここではゲストの話ばかり聞いているんですけど,「何か変なことをしてるな,この旅館」みたいな,そういう存在感を出せた感じでしたね.

増田 YouTubeは今かなり見られているメディアではあるので,そういう意味では綿善で更にYouTubeを活用していくみたいなところはなにかお考えとしては?

小野 結構,持っています.ただやはり業務が始まってみると,今,お客様が戻られているという中では,動画のアップロードができないですよね.編集とかも時間が….私じゃないですけど,そのYouTube部隊の人たちはコロナ禍で,スキルアップ,成長してくれました.でも,通常業務が始まると動画は上げられないですよね.だから企業として成果が出るなら,このような専門部隊というものを作ってもいいかなとは思いつつ,まだそこまでの余裕は無い感じですね.

人材育成についての取り組み

増田 コロナ禍の中での人材育成という観点では新しい試みはありましたか.

小野 人材育成での新しい試みとしては,コロナ前の2019年の6月,7月ぐらいに,京都市内の複数の旅館での合同新人研修,5年以内の中途採用も含めて入社された方53名を対象にした研修というのを行ったことがあります.1社だと呼べないぐらいの良い講師の方がいるのですが,その場にその講師をみんなでお呼びしました.ただ,それをやって以来は,特に共同でやっている人材育成みたいなものはないです.
ただ宿泊プランとしては,「おやどす」という京都市内の5旅館での合同プロジェクトで共通プランを作ってみたりとか,SDGsに絡めたようなことが立ち上がっています.この5旅館がたまたまなんですけど,修学旅行を取り扱っている旅館なので,全国で修学旅行に行けなかった人たちが何十万人もいるということで,その方々プラスご家族を対象にした,「やっぱり行きたい修学旅行」というお得に回れるプランというのを,この5旅館で出させてもらったりしました.そしたら,京都市さんが,そのサ―ビスを他の旅館にも拡充させて,京都全体で盛り上げるみたいな動きにもつながりました.ただ,緊急事態宣言で全く客が来ないという状況だったんですけどね.

増田 コロナ禍で宿泊されるお客様に対して,数が減った分,丁寧に対応することで,従業員の方の対応が変わっている,という話もありましたが,これは意図的に仕掛けられたのか,それともやりながらこういう結果が見えてきたのでしょうか?

小野 半々です.2017年から2018年に起きた,売上が下がってお客さんが増えたというあの現象を見た時から,私の中ではもう答えは出ていました.ただ私は感性で喋るところがあって,ちゃんとした数字で説得できたらいいのですけど,上手に伝えられていませんでした.ただコロナ禍で図らずともお客さんが減ってしまい,みんなの手元が空くことで,だからできることが増えたみたいな状況になりました.
私のずっとやりたかったことが,図らずともコロナ禍でできて,そして,それによって,私がみんなに対して,得てほしいと思っていた感性や感情に繋がった,というところがあります.ですので,今回の結果には,意図的と偶然という両方の側面があると思います.

増田 元々考えられていたところでは,やはりゆとりを持って,というようなものでしたか.先ほど余白という言葉もありましたが.

小野 余白.人生誰でも余白ないと無理じゃないですか.余白がないとできない.うちは24室の和室がありますが,本当は最大で10室とか,できれば3室とかにしたいぐらいのレベルなんです.そしたら,稼働率100%でも,みんなの心と目と手が行き渡るっていうのが,理想の形かなと思っています.
ただ,私が人材の教育をしているというより,本当に今いるメンバーが素晴らしいんですよ.女将さんが何人かいて,1人じゃないんです.みんなが教育の場を作ってくれているように見えます.たまに自分に甘くなったりするのだけは,ちょっと慣れてきたから自分勝手な判断をしちゃいましたとかは,私は許せないので,そこは注意します.それ以外はもう本当にみんなに任せています.だからどうなんでしょうか,これを教育といっていいのかどうか.

増田 このような取り組みは,ルールのようなものを設けておかなくても大丈夫なのでしょうか?

小野 入社の時点でスタッフを吟味して採用するようにしてからは,基礎力というのか,人間力みたいなところが高い方が多く来るようになりました.今日,ちょうど午前中にスタッフと話しをしていたのですが,別にスキルはなくてもいいけど,姿勢がある人がいいよね,みたいなことです.1年間で貯め込んだスキルがある人間性にちょっと問題がある人と,スキルゼロですけど,学びたいとか,仕事したい,お客さんに喜んでほしいというような姿勢のある人であれば,姿勢があれば,3カ月でその1年分のスキルなんて獲得しちゃうし,その人が1年経てば,倍以上にできることが増えて,お客様からの評価につながる,というようなことです.スキルではなくて,その姿勢が良い人を優秀な人と言っています.優しさに秀でた人で,優秀って書くじゃないですか.そういう人材を採用するように心掛けてから,今,そのあたり,教育教育とか言わなくても,場がすごく良い環境になっていると思います.

増田 そういう優秀な方は,能動的に自分で考えられるような方になるのでしょうか?

小野 旅館の仕事は,毎日営業で売って回らないといけないとか,新商品が他社から出たから対策しないといけない,といった世界観ではないです.如何に目の前の人に喜んでいただけるか,みたいなところです.ですので,付けていくスキルというのは,こういうタイプのお客様は,こういうのを喜ぶよね,みたいな,人に依存してしまいますが,そういう蓄積がスキルになったりします.ですので,能動的という程でなくても,そこそこやって行ける業態かなとは思います.

増田 相手に対して喜ぶことをやってあげたいと思っているかといったような,そのような態度を見られているということでしょうか.

小野 そうですね.その人の喜びの軸が,どこに向いているのかというのは見ています.内向きに軸が向く人,外向きに軸が向く人の2パターンがあり,これは半々かなと思います.人に喜んでほしいという軸を持っている人は,見える世界が外に向くんですよね.

コロナ禍の経験を踏まえたホスピタリティに対する認識

増田 ホスピタリティという観点では,コロナ禍でのご経験を踏まえて,考え方は変わりましたか?

小野 お客様が欲しい1つを差し出すというのが私たちの仕事,サービスの1つなんですけど,それ以前に,その人それぞれの持つ,例えば,障害のある方とか,LGBTQの方とか,まだできていないことがたくさんあるんですけど,いろんな人にとって,心地よい空間を作るということ,安心安全という土台の上に,心地よい空間を作ることが,まず私たちがやるべきホスピタリティだと考えています.その空間に来る目的として,ここに来るのが旅の目的の人は,まあいないですよね.要は,京都に旅行で行きます.じゃあ,どこに泊まる? ある中での選択肢から選んでいく.こういうことを忘れて,過剰なものを提供するのではなく,その場に当たり前にあって,違和感のないサービスを提供することが,究極のホスピタリティだと思っています.それを今回のコロナ禍で再認識しました.
今日,お客様がチェックアウトの際におっしゃられたのですが,こちらから「20年後も30年後もここにあるので,またぜひご家族で,何世代で来てください」みたいなことを言ったら,「ほんと変わらないでね」というようなことを言われました.そのお客様は「アンケートを書こうとして,ここの旅館,何がいいってなかったんです」と言うのです.それは別にけなされてる訳じゃなくて,これというのがないから良いんですという,その全てがそのお客様の評価ということでした.
出しゃばり過ぎずサービスを押し付けすぎずに,持っているホスピタリティが,その空間とか場所に現れるというのがいいなと改めて思いました.このことは私の内側にあったもので,表現できてないし,認識していなかったんですけど,このコロナ禍で,そうなのかなと思うようになりました.
ただ,でもたぶんその答えは一生分からないですよね.ここを引退しても分からないと思う.これは時代によっても変わってくると思います.そこの見極めと自己判断.私が良いと思うこの空間に,それを良いと思う人だけが来てくれたらいいぐらいの割り切りがあります.川上浩司教授(京都先端科学大学)の不便益(不便の益,不便で良かったこと)という考え方がありますが,そのような割り切りのある旅館になっていけたらなと思っています.

増田 居心地の良い空間というところでは,旅館さんには従業員の方,つまり,人がいるので,人の対応の居心地の良さも重要になるかと思います.先ほどの,余白があって,従業員の方が思いついたことを試せるというようなことも,結果的には,このような居心地の良さに影響するのでしょうか?

小野 人の対応での居心地の良さは,もう最低限のところです.その点では,スタッフが企業から必要だと見なされているとか,所属しているところからそう思われていないと,多分みんなパフォーマンスをあげきれないんですよね.組織に不信感とか持っていたら,パフォーマンスをあげきれない.組織にマッチしている人は不信感を持たないので,綿善旅館では極力マッチする人を採用しています.
この観点で,2つのエピソードがあります.1つはスタッフさんから,1つはお客様から言われたことです.
私がここに入った当初は,本当に来るのが嫌だったんです.出勤するのが毎日嫌で,タイムカードを押すまでの足取りが銀行にいた時の千分の一以下になっていました.銀行はきつかったんですけど,毎朝,おはようございます,と行けたんです.ここは,つまらない,今日も始まる,みたいな感じで,私自身もしんどかったです.だから,そんな会社は嫌だなという思いがありました.あとは,子供の時に,当時の従業員さんが私にボーナスを上げてよと言った,あのしょうもない大人がいるみたいな話がありましたが,ここをそんなところにしたくないという思いもありました.それで,いろいろと旅館の改革を頑張ったという経緯があります.そしたら,10年以上働いてくれている人が,「めっちゃ働きやすくなった」と言ってくれたことがあります.これが一つ本当に救われたことです.
もう1つはお客様の話ですが,入社してしばらくのその暗黒期に,一度ご利用いただいたお客様で,同業の岡山県の人がいました.その方が,また別の機会に,2018年か19年に来てくれたんです.そしたら,「なあなあ,綿善さん何した?」って言って,「何がですか」と言ったら,「めちゃくちゃ明るくなってへん? めちゃくちゃ雰囲気いい」と言われて,「どこ改装したん?」と聞かれたんです.一切改装していなくて,「変わったところはスタッフさんを妥協せずに選ぶようになって,社員の雰囲気が変わりました」と言ったら,「びっくりするぐらい分かるよ」って.それを同業他社の人が言ってくれました.
このような内部からの働きやすくなったという声と,外部の同業者さんからの声は,リンクしているのかなと個人的には思っています.

増田 居心地の良い空間というところでは,やはり接する人がかなり影響しているということですね.

小野 分かる,分かるんやと思いました.そんな設備変えたって,ハード変えたのかって聞かれるって.

増田 外から見ているとあまりにも印象が違くて,施設自体が変わっているように見えている.

小野 見えたんですよね.人というのは,そこまで印象を変えるほどの威力があるんや,と思いました.でもお客様に実際に接するのは,2,3人じゃないですか.それだけで判断するんだ,みたいなのはすごく驚きました.

増田 このような観点は,「真実の瞬間」という言葉でサービス・マーケティングでも取り上げられていますが,ここの旅館さんがどういうものなのかというのは,結構,最初の方の,人の印象で決めてしまっている,というのはやはりあるのかもしれませんね.

小野 そういう意味では,先ほどの社内で働きやすくなったって言ってくれた人は,フロントの入り口に立つ人ではありますね.

増田 そこでの良い印象というのが一気に….

小野 お客様の視界を奪っているのかもしれません.

綿善旅館における今後の展開

増田 それでは最後に,綿善旅館における今後の展開について教えてください.

小野 今後の展開として,まずコロナ前に戻すという考えはないです.このコロナ禍で見えたことは本当に重大でした.そして,モノ消費からコト消費へのニーズの変化という点もありますから,今後は,その本質をより追求していきたいということは言っています.
ECサイトを始めるというのも,その観点からです.例えば,使っている机が,本当の漆で,お客さんが「これどこのですか」と聞いたら,「いやそこのね,家具屋さんの,北山杉を使ったやつで」とか.他には,テーブルランナーというものがありますが,綺麗な柄で,「これは?」となったら,「西陣織で,○○さんに行ったら買えるんですよ」とか.それを客室に全部タブレットを置いているので,そこのECサイトで,ピッとしたら買えて,自宅に帰るぐらいのタイミングでその商品が家に届いているみたいな取り組みです.
旅館というのは伝統産業とも密に繋がっています.今,伝統産業も文化を残すのに大変な状況になっていて,もう稼げないから後継者がいないみたいな,やりたいという人がいても,趣味ではできても仕事にはできないみたいな状況になっています.そういう中において,旅館が,伝統産業とよりうまくやっていくことができるだろうと考えています.
また,旅館というのは地域にも根付いてるはずです.ただ今までは,京都においてはオーバーリズムの問題の中で浮いた存在になっていました.京都の宿泊全体として,地域から煙たがられて見られていたかな,という思いがあり,もっともっと地域に根付いた旅館になりたいと思っています.
私も含めて働く人たちがこの綿善という場所で幸せになれて,お客様ももちろん幸せになれて,取引先さんも幸せになれて,地域の方々が綿善さんがあるおかげでこの辺明るいよねとか,綿善に関わる皆さんがハッピーになれるような,そんな旅館にしたい,という思いがずっと根底にあります.

著者紹介

小野 雅世

綿善旅館おかみ.立命館大学卒業後,三井住友銀行入社.退職後実家の旅館へ戻り,業務改革を進める.人生最後の旅行に選んで頂ける旅館になるため,日々前進中.

増田 央

京都大学経営管理大学院特定講師.博士(経済学).京都大学大学院修了後,北陸先端科学技術大学院大学を経て,現職.サービスのデジタル化の影響に着目した,サービス工学,経営学,マーケティング,観光に関する研究に従事.

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  • *1 2021年11月25日に綿善旅館(京都市中京区; 天保元年(1830)創業の老舗旅館)にて本インタビューを実施
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