リカレント教育への影響
東京工業大学にはMOT(Management of Technology:技術経営)の専門職大学院(技術経営専門職学位課程)があり,主に社会人の方が働きながら学んでいます.キャリアアップMOT(以下,CUMOT)は,サーティフィケート・プログラムとして,平日夜,週1回の通学など,社会人の方が働きながらMOTの学びを通じて,キャリア形成を図ることを支援する取り組みで,これまで12年間で1,200人以上の社会人の方が受講しています.本稿では,コロナウィルス感染症COVID-19(以下,COVID-19)拡大下でも開講しているエッセンシャルMOTコース(学習サービス)の事例をもとに,リカレント教育におけるCOVID-19対応と学習環境の共創の重要性について紹介いたします.
COVID-19拡大下においては,年度が終わる3月上旬頃から修了式の中止や,いわゆる三密に配慮した学習形態の実施,開催延期など具体的な影響が出始め,4月からオンライン講義に移行しています.5月から開講を予定していたコースもオンライン講義を前提とした学習形態にスケジュールを再調整するなど,運営面でも大きな影響が出ています.「人生100年時代構想」としてここ数年になって,「社会人の学び直し」や「リカレント教育」が広がりつつありますが,社会人が働きながら学びキャリア形成に活かせる学習機会を広げたい,定着させたいという想いからCUMOTの事業に取り組んできました.CUMOTは受講生からの講習料を原資として独立採算で実施しており,コース(学習サービス)の提供を止めてしまうことは,事業活動の停止を意味します.COVID-19対応にあたり,これまで提供していた学習サービスと異なる形態で,顧客(受講生)との価値の共創に取り組む必要があり,12年以上に渡って続けてきた事業を継続するための分岐点に直面をしています.
学習サービスの提供方法と価値
CUMOTでは学習サービスの提供にあたり,どのコースにおいても,グループ課題の設定や少人数による学び合いの場を形成し,お互いの知識や経験を交換(協調学習)する「学習者が主体になる学習設計」としています.講師も単なる「知識の伝達者」としての“指導”ではなく,「学びの伴走者」として受講生が自ら考える思考力の形成や気づきの“支援”を行っています.また,コースのカリキュラム開発,実施,運営,評価を担うコースコーディネーターを設置しており,受講生の学習支援として講師とつなぐ役割を果たしています.CUMOTにおける学習サービスの価値は,まさに受講生(顧客)と講師(実施者)とコーディネーター(運営者)の共創によって生まれています.
CUMOTの学習サービスは,受講生と講師,コーディネーターの距離が近く,受講生同士が互いに学び合う環境が強みとなりますが,COVID-19対応においてはソーシャルディスタンスが求められるためにそれが奪われてしまいます.COVID-19対応にあたり,この強みをオンライン講義においても変わらずに発揮できるような学習環境を構築するには,図1に示すように,遠隔配信による講義においても双方向の矢印のコミュニケーションと受講生同士のコミュニケーションをどのように補完するかが課題となりました.
COVID-19対応のリカレント教育の実践
COVID-19拡大下において開講しているエッセンシャルMOTコースは,週に1度(1回2時間)で1年間で全36回の講義を受講するコースです.3月末と上旬に開講前の受講ガイダンスを2回実施し,4月から「イノベーション論」などMOTに関する11科目(1科目3~4回)を受講するカリキュラムで,私がコースコーディネーターとして受講ガイダンスを担当しました.受講生は24名で多様な企業,役職,年代の方が受講しています.3月末の1回目の受講ガイダンスは緊急事態宣言前ということもあり,三密に配慮して広めの教室で受講生同士の距離をとって実施することができましたが,2回目の受講ガイダンスからはオンライン配信による学習形態になりました.
オンライン講義の配信準備にあたっては,教育機関向け「#学びを止めない未来の教室」でZoomのユーザ登録を行い実施しました.受講生には,オンライン講義の受信環境の用意をお願いし,万が一環境が整わない方には,録画したものを事後にインターネットで視聴可能にする旨の案内をしました.オンライン講義にあたり当初は,「働き方改革等により就業先に残ることが禁止されており視聴ができない」「自宅に視聴可能なパソコンおよび通信環境がない」「スマートフォン等による視聴で高額な通信料金が発生する」といった理由で,従来は大学に通学してもらい対面で受講することで差異なく提供できていた学習環境が,受講生によって違いが出てしまうことを懸念していました.また,対面でコミュニケーションをとって関係性を構築することがほとんどない状況で,意見交換を前提としたグループ課題の取り組みを十分に行ってもらえるのか,という不安もありました.
そこで,私はコーディネーターとして,従来の対面での講義以上に受講生には細かく受講の準備に関する情報をお伝えし,講師とも連絡を取り合う「コミュニケーションの強化」を心掛けました.結果として,受講生の協力により受信に必要なデバイスやインターネット環境を用意してもらうことができ,講師には,講義前の配信テストや自宅からのオンライン講義の配信といった,今までと異なる講義形式に協力してもらうことができました.
4月上旬の受講ガイダンスでは24名中23名の方にオンライン講義で受講いただき,その後に実施した「イノベーション論(全3回)」の講義は,24名全員にオンライン講義で受講をしてもらうことができました.グループ課題の取り組みは,後述する学習支援システム(GMSS:Group Memory Support System)を使ってグループ発表をしてもらうこともできました.講義実施後に行った講義に関する受講生アンケートでは,満足度が例年よりやや低下したものの,「授業で学んだことが今後自分の業務に役立つか」といった項目においては変わりない評価を得ることができました.また,Zoomでのオンライン講義に関するアンケートでは受講生の半数の方がZoomの利用経験がなかったことが分かりました.
講師も受講生も慣れない学習環境の中で,オンライン講義を進めて行くにつれて,コーディネーターとして受講生や講師からのアイデアや提案も取り入れながら運営方法を工夫したり変更して改善をし,4月の講義が終わる頃には「CUMOTにおけるオンライン講義の受講方法の型」を作り上げることができました.学習サービスの価値の本質は「学習効果」にありますが,「学習効果」を発揮するための前提となる「学習環境」を受講生(顧客)と講師(実施者)とコーディネーター(運営者)の三者で構築することができ,今後のCUMOTの運営において有意義な経験や知見を得ることができました.
Zoomを使ったオンライン講義において受講生同士のコミュニケーションの課題の解決に大きな役割を果たしたのが,従来から提供しているGMSSでした.GMSSはWeb上でディスカッションや意見交換ができるツールで,「異なる企業に属する」「勤務先や住居の場所も異なる」「顔をあわせた議論の場は週に1度の講義の日のみ」「発表などグループワークの課題がある」「時間を合わせてグループワークを行うには制約がある」といった受講にあたって障害となる社会人特有の学習環境に対応したICTツールです.遠隔非同期での利用を前提としたICTツールのため,教室(対面)で会う機会が無くてもグループ課題の取り組みにおいて有効に機能しました.COVID-19対応にあたり,従来からある機能(GMSS)と新たに導入する機能(Zoom)を組み合わせることで,学習サービスを継続することができることを実証できたのも1つの成果と考えています.
「価値の共創」が出来るような学習環境を共に創る
COVID-19対応下では,世界中の教育を提供する組織がオンラインを前提とした学習形態に取り組み始めています.日本においては,ICTを用いた学習環境の提供が十分に取り組めていない組織も少なくありません.単なる教育コンテンツ(授業や講義)の配信という観点であれば,日本のICT環境を考えればすぐに取り組むこともできます.しかし,学習サービスの提供という観点から学習者(顧客)と価値を共創するためには,学習サービスの提供者がオンライン講義における学習環境をデザインし,それを実践してもらう必要があります.そしてデザインした学習環境は,提供者側の取り組みだけで成り立つものではなく,受講生(顧客)と講師(学習サービスの実施者)とコーディネーター(学習サービスの運営者)が三位一体となり「価値の共創」が出来るような学習環境を共に創る視点が不可欠です.
本事例では,図2の通り「講師と受講生の協力」「コーディネーターからのコミュニケーション強化」「学習支援システムの活用」により,オンライン講義においても「価値の共創」が出来るような学習環境を共に創ることができ,中でも協力してくれる受講生(顧客)の役割がより一層,重要になってくることを実感しました.
本事例を参照いただき,1つでも多くの教育機関や組織の方が,「価値の共創」が出来るような学習環境を共に創ることを意識して,学習サービスの価値である「学習効果」を最大限に発揮していただく一助となることを期待します.
著者紹介
古俣 升雄
東京工業大学 環境・社会理工学院 技術経営専門職学位課程 特任准教授
キャリアアップMOT(CUMOT)担当 https://www.academy.titech.ac.jp/cumot/