はじめに

観光産業は,新型コロナウイルスのパンデミックによる影響を最も大きく受けた産業の一つである.移動と交流は旅の本質であり魅力であるが,それらが感染症対策においては全て「リスク」となり,観光産業は沈黙せざるを得なかった.
近年の日本では少子高齢化,人口減少の大きな潮流から,外貨を獲得する産業としてインバウンド観光の拡大を積極的に行っていた.日本各地の観光地は,インバウンドへの依存度を高め,訪日旅行者をターゲットにして,魅力発信,サービス開発を進めていたが,順風に見えたその需要は,まさにパンデミックで蒸発した.
全世界で同時に,全ての人々の生活様式に大きな変化をもたらしたパンデミック後の観光産業のあり方は,未だに不透明だ.この2年間を経て,産業界としては国内需要の喚起,近隣の住民に地域の魅力を提案するマイクロツーリズムへの注力,一般化したリモートワークのライフスタイルをとりこむワーケーションの提案,デジタル体験の提供などを模索している.
このような大きな流れの中,一地方の観光地・現場は何をすべきなのか.私の住む北海道・知床地域でも,それぞれの事業者による様々な取り組みが進む.知床は主に自然環境を資源としている観光地であるが,自然には魅力とともに「リスク」も内包している.ビジターに知床を楽しんでもらうためには,リスクも含めた情報提供が必須であり,その方法に悩んできた観光地でもある.ここでは知床のヒグマを具体例に,リスクとしてかつ魅力として,実際にビジターに情報やサービスを提供してきた事例を紹介する.近年ではヒグマをモチーフとして用いた地域ブランドキャラクターが活躍し,地域の案内役,コンシェルジュに発展させようと試みている.これらを通じて,現場で提供するおもてなし,ホスピタリティの方向性について考察する.

知床とヒグマ

知床とは,北海道の北東部にある長さ70 kmほどの知床半島およびその周辺地域をさすことが一般的である.日本でも有数の原生的な自然環境を誇り,観光地として発展するとともに,斜里町のしれとこ100平方メートル運動*1など自然保護についても先進的な取り組みが行われてきた.また,北半球における流氷の南限であり,流氷から始まる海と陸が連続する生態系などの世界的価値が評価され,2005年に半島先端部の71,100 haが世界自然遺産に登録された*2
観光地としては,1960年代から地の果て,秘境,知床旅情などの大自然のイメージで発展を続け,マスツーリズムの隆盛に合わせて斜里町ウトロ地区には4軒の大型ホテルをはじめとする宿泊施設が充実している.斜里町の年間宿泊数は1997年に67万人*3のピークを迎え,その後は減少傾向が続き,2005年の世界遺産登録で若干盛り返すものの,2010年代は年間45万泊前後で推移していた. 1990年代から自然解説や野生動物観察などをコンテンツとするエコツーリズムにも取り組んでいる.自然は当然,人間がコントロールできないものであるから,天候などの不確実性,予想外の事故の危険性などを含み,観光資源として活用するには,ビジネス上のリスクがある.特に,知床の自然を代表する野生動物であるヒグマを観光においてどう扱うか,試行錯誤を繰り返してきた. ヒグマは日本国内に生息する最大の陸上哺乳類で,メスの成獣で体重100~150 kgになる.知床半島には600頭程度*4が生息していると推測され,生息密度は世界最高レベルと言われる.2020年の斜里町・羅臼町のヒグマ目撃件数は1,009件*5に上り,野外活動時にはヒグマ遭遇のリスクを前提にするのが当然となっている. 観光におけるヒグマの扱いは変遷し,ヒグマの目撃件数が増加し出した1990年後半には,危険性からビジターが訪問を忌避することを懸念し,ヒグマの目撃件数の発信そのものがためらわれていた. しかしながら現在では,ヒグマは知床のアイコンと化し,観光船はヒグマを観察できることを魅力として積極的に発信している.もちろんヒグマによる人身事故のリスクがなくなったわけではない.対策の代表的なものに,2011年に導入された知床五湖(以下,五湖)の散策ルールがある.ビジターは散策前にヒグマに関するレクチャーの受講が義務付けられ,5月〜7月のヒグマの繁殖期は認定ガイドによる引率ツアーのみに限定される.このルールは自然公園法の利用調整地区制度に基づき,ビジターは散策のためにレクチャー受講の手数料を支払うことになる. 五湖は知床最大の観光地であったため,ビジターに時間的,金銭的負担を増加させる方向,つまり面倒を増やす方向のサービス提案には,観光客の減少につながる懸念があった.地域内での大きな議論があったが,ルール導入から10年が経過し,ヒグマのリスクについて情報を開示し,その上でビジターに選択肢を提示する,という考え方が確立していった.現在では,五湖は知床らしいルールとして評価を得て人気を持続している.

リスクと選択肢を提示する,というサービス

リスクの明示と選択肢の提示,というアプローチは,コントロールし難い自然環境を資源とする観光地として,ある意味,誠実なホスピタリティを内包しているといえないだろうか.知床の例で考えれば,ヒグマはその地域独自の資源である.ビジターがヒグマを見てみたいと思う反応は,とても一般的である. 一方,パンデミックでビジターが大きく減少したことでも明らかなように,観光は安全・安心を前提としてなりたっている.人身事故を起こしうる危険生物はリスクとなるわけだが,ヒグマを絶滅させて,危険をなくしてしまう,という対策は現実的ではない.生物多様性の点からもありえないし,地域の独自性という宝を失うことになる.そもそも一つの生物を絶滅させられるものではない. 安全・安心なレベルにリスクをコントロールしたうえで,観光サービスにするという考え方もある.しかし,すべての自然環境同様,ヒグマをコントロールすることは難しい.コントロールできるのは,生物種として同種でありコミュニケーションが成り立つ「ヒト」側の方,と考えるのが妥当である.サービスを受け取る側,ビジターの行動を規制することで,結果的に受け取れるサービスを豊かにすることに繋がると考えられる. ビジターの行動変化の誘導は困難なテーマであり,ここでそれを展開する力はないが,ビジターの納得が必須であるのは確実である.知床の例であれば,ヒグマのリスクについて複数の選択肢があることがビジターの納得のために重要であった.具体的には,レクチャーを受けて自分で歩く,ガイドを頼む,安全対策がされた展望台にいく,観光船から観察する,という選択肢がある.各ビジターがその中から自ら選んだという実感に繋がっていると思われる.いまだ各地で続く一般的な管理方針「ヒグマが出没したら遊歩道閉鎖」に比べれば,楽しめる可能性が開かれていると,ビジターは受け取るのではないか.また,実際に接客していると,ヒグマというリスクの解説そのものが,旅先の独自性あるコンテンツとして,ビジターにインスピレーションを与えているように感じることが多々あった. ビジター側もサービス提供側も,この考え方を支えるために重要なのはリスクも含んだ関連情報が公開されていることであろう.ヒグマの出没情報,遊歩道の開閉情報,観光船の欠航情報などは,知床情報玉手箱というサイトで常時更新し,ビジターが行動を選ぶ判断基準を提示している. これらの考え方は他の事例にも発展している.2021年からは,落石のリスクで閉鎖になっていたカムイワッカの滝の上部区域を,ガイド同行などの条件を付けて利用する試み*6が始まった.


写真1 五湖でのレクチャー風景

冒険という観光コンテンツは成立するか

一般的に,日本はリスクに対して慎重で,特に冒険的なものへの許容度が低いと言われている.リスクについて語ることは,果たしてホスピタリティにつながるのであろうか.
パンデミック前より注目されていた観光マーケットにアドベンチャートラベル(以下,AT)がある.ATは,「自然の中でのアクティビティや異文化体験を通じて自分の内面が変わっていくような新たな旅のスタイル」と定義され,顧客層が長期滞在を好む富裕層であることから経済波及効果が高い.冒険と感じるものは個人差があり,ATでは登山などハードなものより,むしろ散策や文化体験等のソフトで簡易なものが主流だといわれているが,いずれにしても,リスクのある冒険的な観光コンテンツを含むことになる.これらATが,リスクに慎重な日本で成立するのか疑問視する声もある.
日本では,事故が起これば社会的批判を受けることも多く,サービス提供側は慎重になる傾向がある.自然体験のフィールドを地域資源として開発したり運営したりする場合,このフィールドをゼロリスクにすることはできない.リスクに注目するあまり,利用者の体験を制限することがあるが,これは管理上のコストを増大させ,満足度を低下させることにつながる.なかなか発展的な構造になりづらい.
例えば,登山は自然環境の中で行う古くからあるアクティビティであるが,リスクは決してゼロにはならない.事故が起こればメディアなどでは無謀な挑戦という批判が起こる.しかし,何がリスクかしっかり定義され,対策が述べられていれば,それを実施していたかどうかが,無謀かどうかの基準となる.この基準なしでの批判は実際の事故防止の役には立たない.
これは,この2年間,全世界が体験したウィルス対策と同じ構造であるといえる.
感染を拡大させるリスクを明確にし,その対策として事業者がやるべき有効な対策,個人が守るべきルールが示されてきたわけである.ある意味,この2年間で全ての人々がウィルスを通じて感じたのは,どうしようもない受け入れざるを得ないリスクは存在する,という共通認識.そしてその対処や考え方の整理について,社会全体で取り組んだ体験の共有だった.
パンデミックによってリスクに向き合ってきた今,ビジター側の視点としても,自然の中でゼロリスクは期待できないという理解は浸透しつつあるのではないだろうか.日本で冒険的な観光コンテンツを社会が受け入れる,変化の土台が醸成された,といえるかもしれない.

地域の力は,アナログ強化とコンシェルジュサービス

言わずもがなであるが,個人の価値観は多様化しており,メディアでなく個人が発信し,共感をシェアしている時代である.実感として,私達はあふれる情報の海に溺れつつある.
そんな中で,私達が選択肢とリスク情報を公開したとしても,果たしてビジターに手渡すことができるのであろうか.インターネットにおける各種発信,SNSのプラットフォーマーに広告費を支払い,デジタル情報の海に何滴かをつぎ足すにすぎないかもしれない.
それゆえ,地域の観光においてはデジタル発信に加え,アナログ部分の強化と,選択肢を整理してくれるいわゆるコンシェルジュサービスがポイントになると考えている.

前述のATに注力する旅行事業者の方から,旅行の手配を成功させる秘訣を聞いたことがある.それは,ビジターの満足度は出会った(出会わせた)現地人の数に比例する,というロジックで,アドベンチャー系に限らず,全体に当てはまるとのことであった.
確かに,旅先での出会いは,その地の空気や環境を身体的に共有することであり,デジタル体験では代替できない,旅の本質の一つである.
彼らは観光のプロであり,知識も接客技術もあり,顧客の要望を聞き取り,適切な選択肢を提示する,いわゆるコンシェルジュサービスを行っている.
一地域で彼らのような総合的なコンシェルジュを抱えることは難しいかもしれない.一方,どの地域でも,そこに暮らしている住民が,サービス産業の担い手であることが多く,住民が持つ地域情報は,旅行会社のそれよりも深く広い.私達一人ひとりは,地域限定のコンシェルジュになり得るのである.
それは,あるカフェのスタッフが,夕日スポットを紹介する,というようなちょっとしたことで日常的に行われている.こういったことを,連鎖的につなげていくことで,地域全体がコンシェルジュを担い,ビジターにとってはホスピタリティを感じる印象深い旅になるに違いない.
そんな仕掛けとして,知床では,ヒグマをモチーフとした「知床トコさん」という地域のキャラクターを使い,デジタルツール(時々刻々と変化する情報提供)とアナログツール(現地での対面での触れ合い)を融合したスタンプラリーを,新たなプラットフォームとして作り上げようとしている.2021年の2月に実施し,2022年は年間3回を計画,地域住民やビジターに対して,年間を通じた知床の旅のスタイルを提供することを目指している.
パンデミックで居住地の概念が変化する中,ビジターが求めている情報は,もはや半日観光からテレワークの長期滞在,さらには移住に関するものまで広がる.1時間から今後の半生まで時間の長短はあれど,その地で「暮らし方」の提案をもとめている.リスクや不便も踏まえて,この地に暮らすことを選択した住民こそが,それに応える誠実なホスピタリティを提供できるのではないだろうか.


図1 知床・斜里町のシンボルキャラクター
「知床トコさん」

著者紹介

寺山 元

一般社団法人知床しゃり事務局長.外資系コンサルタント,辺境地専門旅行会社勤務を経て,2006〜2019公益財団法人知床財団にて野生動物対策・国立公園管理などに従事.2019年8月より現職.

・・・

おすすめの記事