変化の「きざし」とビジョンデザイン

日立のデザイン部門では,当社が「社会イノベーション事業」を掲げたのを受け,新しい社会システムのビジョンを描くのはデザインの役割であると考え,2010年より「ビジョンデザイン」という活動を行っている.活動を進めた10年の間には,デザイン的な思考による事業検討やサービスデザインの方法論を日立グループやパートナーの方々に広めていく活動が派生した.2016年には,内閣府が発表したSociety 5.0のコンセプトのもつ本質に共感するとともに,技術が人をリードするのではなく,地域やそこに暮らす人びとによりフォーカスした社会システムのあり方を示し,多くの方々と議論をすることが必要であると考え,「Beyond Smart」というコンセプトを掲げ,専任のデザインチームを立ち上げた.

2020年,世界はコロナウィルス感染症COVID-19の蔓延に見舞われ,人々は突然訪れた危機に対してこれまでの社会システムが十全に対応できないことを目の当たりにした.今回の感染のピークが去ったとしても,第2波または新たな感染症の流行が起こる可能性が指摘されている中で,今できる対策を遂行すると同時に,これからの社会がどのような力を備える必要があるのかを示すビジョンを持つことが益々重要になっている.

将来の社会システム像を描く際に日立デザインが行ってきた活動の1つに,社会の変化の「きざし」を示すというものがある.現在では広く行われている未来洞察の一種で,日立の活動の特徴は,人々の考え方や行動の変化に着目をしている点にある.2010年に作成した「25のきざし」では,生活におけるバーチャルとリアルの境目が曖昧になる「Missing Reality」や,家族の捉え方やその形態の変化を示した「Model of Family」など,特徴的な人視点の変化のきざしが示されている.抽象度が高く使いづらいと思われるかもしれないが,人の変化に着目した内容に留めることによってツールとしての汎用性が高まり,この10年の間に行ってきたさまざまな領域のアイデア創出において,議論をより興味深いものにすることに貢献してきた.近年は,人々の生命・財産・人権・アイデンティティなどを脅かす3つの喪失を示した「Crisis 5.0」や,デジタル技術の浸透によってつながり方の変わった社会における新しい信頼の形を考察する「TRUST/2030」など,新たな形での価値観変化の洞察にも挑戦している.

図. 25のきざし(左)とTRUST/2030(右)

「アフターパンデミック」に向けたデザインの第一歩

COVID-19の流行を受け,日立デザインでは改めて人々の考え方や行動の変化のきざしを洞察する活動を行っている.この活動はトップダウンで始まったものではなく,日立のロンドン,サンタクララ,東京,北京のデザイナーが,いまこそビジョンデザインが役割を発揮すべきときであると考え,それぞれに立ち上げることによって始まった.具体的には,SNSを利用し,PESTLE(政治,経済,社会,技術,法制度,環境)の観点で挙げられた注目すべきトピックスや,日々変化する状況の中で個々人が感じたことを共有し,ある程度の数が蓄積された段階でオンラインでの未来洞察ワークショップを行っている.それぞれの地域で経験していることや課題が異なるために並行して行っているが,SNSを用いることで,他地域の議論もすべて見ることができ,時間差を持って会話に参加をすることもできる.勿論,直接的な対話も行っており,地域による違いから新たな学びを得ることができる.

各地域での議論は現在も続いているが,ここで東京チームにて挙げられたトピックスの1つを簡単に紹介する.コロナ禍においては,マスクのニーズが急速に高まったことにより供給が追い付かなくなり,これまでマスク製造を行ってこなかった企業がその製造に乗り出した.ニューバランスも靴製造のノウハウやリソースを活かし,最前線の医療スタッフが自信を持って使用できるマスクを製造することを発表した*1.同社によると,このことが社会的な問題の解決に貢献すると同時に,同社の多くの従業員へ誇りをもたらしているという.イケアのイノベーションラボであるSPACE10のサイモン・キャスパーセン氏は,SPACE10の開設を提案した際,イケアが社会に対してどのように責任を果たしていくのかについて,「Responsibility」をひっくり返した「Possibility to respond」についてイケアの社長に尋ねたというが*2,ニューバランス社やその他の企業が示した,社会の危機に対して迅速かつ柔軟に対応した姿勢こそが,これからの社会におけるPossibility to respondに対するResponsibilityではなかろうか.

上記のような生活者のニーズに対する企業の対応とは逆の事例も目にすることができる.2020年2月27日,日本政府は前触れもなく全国の学校に対する臨時休校要請を表明した.これにより学校給食用に生産された野菜が納入できないという問題が生じた.日立デザインのオフィスがある東京都国分寺市では,普段から市内の飲食店への地元野菜の配送を手掛けてきたNPOのスタッフが,一般市民に向けてSNSで呼びかけ,行き場を失ってしまった野菜を販売するという咄嗟の行動を取った*3.生産者のニーズに対する消費者の対応を引き出したのである.ここで注目すべきは,農家の「救済」を前面に出すのではなく,地元野菜の特別セットとして販売したことだ.生産者でも消費者でもない第三者が入ることで,助ける側や助けられる側という関係のない,対等な善意のデマンドレスポンスを成立させている.

COVID-19の流行のピークが過ぎたとき,すべてが元に戻るわけでも,すべてが緊急事態のように振舞うわけでもないだろう.急激に変わりうる状況に対して上記のような調整力を,人々,企業,街が備えていくことが,今後の社会に求められることとして見られるのではないだろうか.

ご紹介できるものは未だ議論が熟していない例ではあるが,このような「観点」を多く揃えることが,いま日立デザインが各地域で行っていることである.その先では,より多くの事業者や市民の皆さんとの議論や実践を通じて,今後の社会システムをつくっていきたいと考えている.

著者紹介

柴田 吉隆

株式会社日立製作所 東京社会イノベーション協創センタ ビジョンデザイン部 主管デザイナー.交通・金融に関するUXデザイン,サービスデザインの浸透,Society 5.0に向けたビジョンデザインチームの立上げに従事.
https://www.hitachi.co.jp/rd/research/design/vision_design/index.html

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