はじめに
本オーガナイズド・セッション(OS)では,対人サービス産業において本質的に重要であるが,サービス学会として,あまり研究課題として深耕されていなかった「感情労働」を取りあげ,これからの研究課題の整理と解決アプローチを明確化することを目的としたものである.感情労働とは,他者が期待する感情を表出するために,自己の感情を調整・管理する労働である.Hochschildによって提唱され,接客や医療など対人サービスに多く見られる.近年のAI活用時代において,肉体労働,頭脳労働への対処に続いて,感情労働が特に注目されてきている.本OSでは,以下の5件の発表とそれに基づく討議をおこなった.
- 原 良憲 「サービス・ケイパビリティによる感情労働課題への接近」
- 本田 路子 「感情労働がもたらす価値:価値共創概念と実務的知見をふまえた考察」
- 石川 信仁 「感情労働としての看護」
- 増⽥ 央 「サービス研究におけるテクノロジーと感情に関する⽂献調査に基づく感情労働へのアプローチ」
- 堤 崇士, 嶋田 敏 「感情労働とサービスケイパビリティに関する論文サーベイ」
報告概要
原[1]では,従来の感情労働研究は,個人の感情管理や影響要因分析が中心だったが,人口減少・サービス化社会においては限界があるため,感情労働の課題を個人ではなく組織全体の「サービス・ケイパビリティ」によって解決するアプローチに言及している.サービス・ケイパビリティとは,利害関係者や限られた資源を最適に調整し,バランスよく価値創造を遂行する組織能力であり,感情労働のストレス軽減や価値共創の促進に寄与するとされる.本田[2]は,ホテル・航空業界の実務家へのインタビュー調査などから,従来の感情労働研究が個人の感情管理やストレス要因に焦点を当てていた点を問題視し,これを組織全体のサービス・ケイパビリティによって戦略的にマネジメントすべきと論じている.感情労働の負担を一方的に従業員に課すのではなく,顧客との相互作用を価値共創の場と捉え,従業員がスキルと知識を活かして顧客の期待とのギャップを解消していくプロセスこそが感情労働の本質であるとする.このような価値共創を支える組織体制と従業員育成がプラスの結果をもたらすことを明らかにした.一方,看護分野に焦点を当てた石川[3]は,ケアリングを感情労働の核心と捉えている.ケアの本質である「ケアリング」は,単なる身体的世話ではなく,対象者との相互的関係性と人間的成長を重視する概念である.その実践には高い共感力と専門的判断が求められるが,体系的な訓練が不足している現状課題がある.看護師が患者の苦しみに寄り添うためには,感情的な負担を受容しつつも,継続的な支援や教育が不可欠であるとし,AIやロボットを活用した感情労働支援の必要性も指摘している.
これらの対人サービス領域に対して,増田[4]は,AIやロボットなどのテクノロジーが感情労働の支援に果たしうる役割に注目している.AIによる感情認識やコミュニケーション支援は,サービスの質を高めるとともに,従業員の心理的負担を軽減しうる可能性を持つ.ただし,それには人間の感情とテクノロジーの関係を踏まえた慎重な設計が求められる.また,堤・嶋田[5]は,感情労働に対する組織的アプローチの必要性を明らかにし,将来的なAI活用も視野に入れた感情労働のマネジメントに関する文献レビューを通じて,今後の研究の方向性を提示している.今後の研究課題として,顧客との接点の動的分析(感情労働は従業員だけでなく顧客にも影響を及ぼす),共感と感情労働(共感を組織的に支援することで,感情労働の負担軽減が可能),サービス・ケイパビリティの活用(感情労働を組織能力として位置づけ,顧客との関係やAIの活用を含めた資源配分モデルを検討)などが重要としている.
おわりに
本OSにおける発表とその討議に際しては,感情労働を単なる個人の努力としてではなく,組織の戦略的課題としてマネジメントし,テクノロジーや共感支援を組み込むことで,新たなサービス価値を創出する可能性があるという議論がなされた.サービス学会では,感情労働に関する研究が従来の「個人の感情管理」や「ストレス研究」にとどまらず,「価値共創を担う組織マネジメント研究」としての再構成が要請される.サービス・ケイパビリティを活用することで,感情労働を組織戦略に統合し,持続可能なサービスモデルの構築を目指すと共に,今後は,感情労働の定義の精緻化,測定法の標準化や,ケイパビリティ構築のための実証的枠組み,AIを含む支援技術との連携モデルの確立などが求められる.将来的には,AIは単なるツールではなく,人と共進化しうる存在として捉えられ,感情労働の支援に組み込むことで,宿泊,飲食,介護などの分野におけるウェルビーイング向上が期待される.
著者
原 良憲
京都大学名誉教授. 大阪成蹊大学データサイエンス学部教授. 京都大学経営管理大学院客員教授. 東京大学工学部電子工学科卒業. 東京大学大学院 工学系研究科修士課程修了. 京都大学博士(情報学). 日本学術会議連携会員, AREホールディングス株式会社社外取締役, 一般社団法人京都サービス経営研究所代表理事.
主な著書『A New Approach to Resilient Hospitality Management』(共著/Springer、2022), 『スーパーホテル「マニュアル」を超えた感動のおもてなし』(共著/かんき出版、2024)など.
増田 央
京都外国語大学国際貢献学部グローバル観光学科准教授.博士(経済学).京都大学大学院修了後,北陸先端科学技術大学院大学,京都大学を経て,現職.情報技術活用の観点での経営学,マーケティング,観光,サービス工学に関する研究に従事.