はじめに
2000年代以降,医療ツーリズムに取り組む国や地域が年々増加してきている.日本においても,2010年6月に発表された新成長戦略において医療観光の推進が掲げられことを契機として,医療滞在ビザや外国人患者受け入れ医療機関認証制度等が創設されるなど,海外から外国人旅行者(患者)を獲得するための様々な施策や取り組みが政府や一部の地方自治体ならびに民間こと業者において行われるようになってきている.
ところで,この「医療ツーリズム」という言葉であるが,日本では,「医療観光」という言葉が用いられたことから,医療と観光を組み合わせたものが「医療ツーリズム」と考えられているようであるが,これは国際的にみると必ずしも正確な理解とはいえない.なぜなら,いまだに「医療ツーリズム」に関しては国際的に統一した定義はないが,一般的には,「国境を越えて他国でヘルスケアに関するサービスを受けること」を指すと考えられているからである.そのため,医療ツーリズムの中には,健診+観光のように医療と観光を組み合わせたものだけではなく,重度の心臓病を抱える患者が心臓手術のためだけに他国へ行くといったような観光的要素がまったく含まれないものも医療ツーリズムの一種に該当するということになる.このように「医療ツーリズム」とのいうのは非常に概括的な概念である.そのため,多種多様な医療ツーリズムを整理するために,各国の研究者や関係事業者によって様々な分類の試みが行われている.例えば,図1は,Hall(2013)による分類を示したものである.Hallは,「医療ツーリズム」全体を「Health Tourism」と総称し,「対象者の健康度(病気の状態か健康な状態か)」ならびに「提供するサービスの目的(治療目的か健康増進目的か)」という2つの尺度を用いて,再生医療(stem cell tourism)や不妊治療(fertility tourism)などのように治療目的の要素が強いものを「(狭義の)医療ツーリズム(Medical Tourism)」と呼び,その一方で,美容(Beauty Treatment)や体質改善(Nutrition and detox programs)などのように健常者に対して健康増進や予防目的の要素が強いものを「ウェルネス・ツーリズム(Wellness Tourism)」と呼んで区分している.この区分はあくまでも一例に過ぎないが,この区分を基本として,近年の医療ツーリズムの国際的動向を指摘するとすれば,「ウェルネス・ツーリズム」に力をいれる国や地域が増えてきていることが挙げられる.日本では,外国人を対象とした本ウェルネス・ツーリズムに本格的に取り組んでいる地域はまだまだ限られており,治療目的の(狭義の)医療ツーリズムほど参入障壁は高くはないといえ,国際競争力のあるウェルネス・ツーリズムを展開するためには,その医学的効果にも言及しながらプロモーションを展開することが必要になるなど,実際に取り組むとなるとそれなりの体制整備が必要となってくる.また,COVID-19をめぐる現在の状況を踏まえると,短期的には外国人を対象としたウェルネス・ツーリズムを実施していくのは現実的に不可能だろう.しかし,筆者個人としては,本特集のテーマでもある地域資源活用ならびに長期的な視点にたって考えてみると、外国人を対象としたウェルネス・ツーリズムは日本においても大きな可能性を秘めているものと考えている.そこで本稿では,国際的にウェルネス・ツーリズムが注目されている背景や日本での可能性について,最新の国の施策の動きも含めながら紹介してみたいと思う.
ウェルネス・ツーリズムが国際的に注目されている背景
医療ツーリズムの中でもウェルネス・ツーリズムが注目されている最大の理由は,そのマーケットの大きさである.すなわち,(狭義の)医療ツーリズムは,治療が必要な患者を対象としているのに対して,ウェルネス・ツーリズムは健常者あるいは健康増進や予防に関心のある者が対象となるため,自ずとその市場も大きなものとなる.そして,図2は,欧米ならびにアジア地域の高齢化率の推移を示したものであるが,この図からもわかるとおり,今後世界的に急速に高齢化が進むことが予想されている(内閣府 2019) .その中でも特に急速に高齢化が進むことが予想されているのが中国・シンガポール・インドドネシアなどのアジア諸国である.人口の高齢化が進めば,当然のことながら,慢性疾患や生活習慣病をはじめとして,健康に問題を抱える人々が増えることが予想される.実際,例えば,表1は,国際糖尿病連合(International Diabetes Federation : IDF)が発表している世界の糖尿病患者の統計データであるが,この表のとおり,2019年時点における世界の糖尿病人口が4億6,300万人であるのに対して,2030年には5億7,800万人,2045年には7億人まで増加することが予想されている(IDF 2020).そして,今後特に中国やモンゴル,東南アジアの国々が含まれる西太平洋地域では,人口の高齢化に加え,著しい経済成長による生活スタイルの変化に伴い,糖尿病患者が増加すると考えられており,2019年時点では1億6,300万人程度であった糖尿病患者数が2045年には2億1,200万人程度まで増加すると予想されている.なお,これらの数字はあくまでも糖尿病患者の数を示したものであるため,その予備群も含めればその数はさらに膨大なものになると考えられている.すなわち,これから日本周辺のアジア地域では,健康に問題を抱える人々が増えるということであり,このことは換言すれば,これらの地域では健康増進や予防に対するニーズが急速に拡大するということでもある.
さらに,こうした世界的な健康増進・予防ニーズの拡大に加えて,表2は,世界の中流階級の将来推計を示したものであるが,この表からも分かるとおり,今後特にアジア・パシフィック地域やサブサハラ・アフリカ地域,中東・北アフリカ地域など経済成長の著しい発展途上国が多く含まれる地域では,中流階級層が急増することが予想されている(Kharas 2017).その中でも特に中流階層が急増すると予想されているのがアジア・パシフィック地域であり,2015年時点では13億8,000万人であったものが2030年には34億9,200万人まで増加するとされている.そして,こうした中流階層の増加は,海外旅行ニーズの拡大につながり,前述した健康増進・予防ニーズの拡大傾向と合わせて考えると,ウェルネス・ツーリズムに対するニーズは今後急速に高まると考えられている.こうした背景から,現在,各国でウェルネス・ツーリズムに対する開発やプロモーションが盛んに行われるようになってきている.
日本におけるウェルネス・ツーリズム成功の可能性 ―活きてくる地域資源―
このように国際的に注目されているウェルネス・ツーリズムであるが,日本においても,医療ツーリズムに取り組むのであれば,治療目的の(狭義の)医療ツーリズムよりも,ウェルネス・ツーリズムの方が向いている地域が少なくないように考えられる.
その第1の理由は,「国際競争力」の問題である.すなわち,例えば,これまで日本で外国人を対象とした医療ツーリズムといえば,中国人旅行者を対象として健康診断と観光を組み合わせて提供しようするものが多くみられたが,特に,地方においてこのようなプログラムを提供しようとしているところでは,集客に苦労しているところが少なくないように思われる.しかし,これは医療ツーリズムの観点からいえば,ある意味当然のことである.なぜなら,日本では,都市部の大学病院でも,地方の小規模病院でも同じようなレベルの健康診断を受けることができる.しかし,中国では,医療機関は,三級(特・甲・乙・丙)・二級(甲・乙・丙)・一級(甲・乙・丙)の10等級に分かれており,医療機関のレベルは大きく異なっている.そのため,もともと医療者に対する不信感の強い中国では,病床数が500以上で医療設備も整っている三級の医療機関を好む傾向があり,病床数が100床以下の一級の医療機関はそれだけで避けたがる傾向が強い.そのため,医療機関に対してこのような意識を有する中国人旅行者が日本において健康診断を受ける場合には,自ずと都市部の大規模病院や有名病院を好む場合が多く,たとえ日本では地方においても質の高い健康診断等が受けられるといっても,なかなか信用してもらえないというのが正直なところである.また,そもそも地方の場合にはアクセスの点から不便というのも競争力の観点からみれば望ましいことではない.このように,単なる健康診断+観光というだけでは,医療ツーリズムとしての国際競争力を維持することは容易ではない.しかし,このような地域であっても,例えば,健康診断だけではなく,温泉(湯治)や各種リハビリテーション等,その地域の自然や健康増進・予防につながるような資源を活用して,ウェルネス・ツーリズムプログラムとして開発・提供できれば,いっぺんにその国際競争力を向上させることができる可能性がある.また,ウェルネス・ツーリズムの場合には,アクセスの悪さや医療機関の規模の問題も自然豊かな地方都市が多いため,さほど問題とならない.そのため,もし医療ツーリズムに取り組むのであれば,特に地方都市などにおいては,このウェルネス・ツーリズムは一考に値するものと考えられる.
そして第2の理由は,「国内医療への影響」の問題である.2010年に新成長戦略において医療ツーリズムの推進が謳われたときから,一部の医療関係者から,医療ツーリズムの推進は国内の患者から貴重な医療資源を奪うことにつながるとして強い反対の声が上がっていた.また,医療関係者による反対がなくても,医療関係者が国内患者の対応で精一杯であり,外国人患者の対応まで手が回らないという地域が日本では少なくなく,これが日本において医療ツーリズムを発展させる上での大きな障害の一つになっていたものと考えられる.この点,確かに,医療ツーリズムの中でも,治療を目的とした(狭義の)医療ツーリズムは,(外国人の)患者を対象とするため,医療関係者の負担が非常に重く,日本の現在の医療環境の中では,推進していくためには,いろいろな調整や配慮を行う必要がある.しかし,これに対して,ウェルネス・ツーリズムは,健常者の健康増進・予防を目的とするために,医療関係者の協力は欠かせないが,医療関係者にそれほど負担をかけることなく実施していくことが可能である.
例えば,図3は,東欧を中心に展開しているダヌビウスホテルグループにおいて,いわゆるウェルネス・ツーリズムプログラムを提供している「Thermal Margaret Island Health Spa Hotel」のウエブサイトのトップページである.この図からもわかるとおり,このホテルでは,一般的なリゾートホテルで提供しているプログラムに加えて,個々人の体調や医師のコンサルテーションに基づいた治療サービスを含めたHealth StaysプログラムやWellness& Beautyプログラムなど,様々なプログラムを提供している.また,プログラムの期間も「Short(1泊~6泊)」「Traditional(7泊)」,「Complex(14泊以上)」と利用者の予定にあわせて調整できるようになっている.そして,このホテルでも様々な形で医療関係者が関わっているが,あくまでもプログラム提供の中心はホテル関係者となっている.このように,ウェルネス・ツーリズムでは医療関係者の負担を抑えたり,その関与の在り方を調整したりすることが可能である.そのため,地域の医療体制や医療状況から医療関係者の積極的な関与は難しいが,湯治に優れた温泉があったり,医学的なリハビリテーションを行うセラピストの確保であれば比較的容易であったりするなど,健康増進・予防に関する資源を有する地域であれば,治療を目的とした(狭義の)医療ツーリズムを開発・提供していくことは難しくても,このようなウェルネス・ツーリズムであれば十分開発・提供していくことは十分可能であると思われる.
もっとも,実際にウェルネス・ツーリズムに取り組むのであれば,やはりそのための言語をはじめとした体制整備は不可欠ということになる.また,ウェルネス・ツーリズムを謳う際には,単に健康増進や予防に効果的である宣伝をするだけでは不十分であり,医学的な根拠づけも重要となってくる.そのため,ウェルネス・ツーリズムに力をいれている海外の地域の中には,その効果を研究して医学論文として発表し,それを宣伝材料にしているところも少なくない.このようにウェルネス・ツーリズムの開発・提供にあたっては取り組むべき課題も少なくないが,COVID-19の問題が落ち着いた後,あらためて医療ツーリズムや外国人旅行者の誘客に取り組みたいと考えている地域においては,このウェルネス・ツーリズムの開発や提供について検討してみても良いのではないかと思われる.
なお,昨年度から,国レベルでも,厚生労働省と観光庁が協力して,このウェルネス・ツーリズムに関連した調査事業を実施している.それが,「地域の医療・観光資源を活用した外国人受入れ推進のための調査・展開事業」である.これは,その名のとおり,地域の医療観光資源を活用して外国人の受入れに取り組みたいと考えている地域を公募して,選定された地域の当該活動を支援し,そこで得られたノウハウを今後他の地域にも展開していこうというものである.2019年度には,5つの地域が選定されており,2020年度も同様の事業が実施されているところである.当該情報の詳細については,厚生労働省のウエブサイトにおいて閲覧可能であるため,興味のある方はご覧いただくと良いであろう(厚生労働省 2019).
以上のとおり,日本ではまだまだ成長段階にある外国人を対象としたウェルネス・ツーリズムであるが,本稿で紹介したとおり,地域資源の活用の観点からも,非常に期待できるものである.そのため,今後更なる検討・研究が望まれるところである.
参考文献
Hall, C.M. (2013). Medical Tourism- The ethics, regulation, and marketing of health mobility, Routledge.
International Diabetes Federation(2019). IDF DIABETES ATLAS Ninth edition.
https://www.idf.org/e-library/epidemiology-research/diabetes-atlas, last accessed on July. 30, 2020.
Kharas, H.(2017). THE UNPRECEDENTED EXPANSION OF THE GLOBAL MIDDLE CLASS AN UPDATE. GLOBAL ECONOMY & DEVELOPMENT WORKING PAPER 100 .
https://www.brookings.edu/wp-content/uploads/2017/02/global_20170228_global-middle-class.pdf, last accessed on July. 30, 2020.
厚生労働省(2019)地域の医療・観光資源を活用した外国人受入れ推進のための調査・展開事業, https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000537991.pdf, last accessed on Aug. 22, 2020.
内閣府(2019). 令和元年版厚生社会白書.https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2019/zenbun/01pdf_index.html, last accessed on July. 30, 2020.
著者紹介
岡村 世里奈
国際医療福祉大学大学院医療経営管理分野/医療通訳・国際医療マネジメント分野 准教授.上智大法学部卒業.上智大大学院法律学研究科博士課程前期修了後,国際医療福祉大医療経営管理学科助手,The Beazley Institute for Health Law and Policy, School of Law, Loyola University of Chicago の客員研究員等を経て現職.平成22年年度から厚生労働省をはじめ国内外の国際医療交流事業研究に携わっており,現在は,内閣官房健康・医療戦略推進本部「訪日外国人に対する適切な医療等の確保に関するワーキンググループ」メンバー,厚生労働省「訪日外国人旅行者に対する医療の提供に関する検討会」構成員,厚生労働省「地域の医療・観光資源を活用した外国人受入れ推進のための調査・展開事業」評価委員会委員長,東京都「外国人患者への医療等に関する協議会」メンバー等を務めている.