はじめに
今日の新サービス開発において,デジタル技術とデータの活用は最も重要な課題の1つである.大量のデータを集約・運用するデジタルプラットフォームの実現に加え,データを収集・分析・活用するためのモバイル技術,IoT(Internet of Things),ヒューマンセンシング,機械学習,ロボティクス等のデジタル技術の急速な進展により,これまでにない新しいサービスの実現が可能となった.特に,スマートフォンの普及以降,生活者個人の情報(パーソナルデータ)を活用したサービス開発が進んでおり,その内容は小売,モビリティ,電子決済,フィットネス,シェアリングサービス等,多方面に及んでいる.GAFA (Google, Amazon, Facebook, Apple)やBATH (Baidu, Alibaba, Tencent, Huawei)等の巨大プラットフォーマーがサービス開発を主導する一方,情報システム業に限らず,多くの産業でパーソナルデータの活用に向けた取り組みが進められている.例えば,製造業においても,消費者のデータを直接収集することで,旧来の製品販売を超えたサービス化の取り組みが行われている(経済産業省 2020).
一方,パーソナルデータの活用については,プライバシーや消費者保護の観点からの懸念も挙げられている.プライバシーの観点では,欧州GDPR(General Data Protection Regulation, 一般データ保護規則)や日本の改正個人情報保護法等,個人情報の扱いに対する法規制の整備が急速に進められている.また,巨大プラットフォーマーによる情報独占に対する懸念も高まっており,独占禁止法に基づく対応(公正取引委員会 2020)やプラットフォーマーに対する新しい法規制の検討(内閣官房 2020)も進められている状況である.
パーソナルデータの収集・活用についての法規制に対する正しい理解や,データ活用に関する社会のコンセンサスの構築は十分に進んでいるとは言い難い.データの不適切利用事例に対する社会的制裁も見られる中,データの利活用に関して,データを収集する側,される側双方が暗中模索しているのが現状であると言えよう.
パーソナルデータの保護と活用という一種矛盾したこの問題は,前述の法制度だけでなく,情報を扱う組織の守るべき倫理観や採るべきプロセス,それに対する社会の信頼,情報の活用を受け入れる市民文化とも深く関係している.情報セキュリティ技術や匿名化といった技術的課題に加え,データの取得プロセスや活用方法の検討,データ利用に対する受容性の把握やコンセンサス構築等,多くの課題に取り組む必要があり,パーソナルデータを活用したサービスの開発に求められる知見の範囲は極めて広い.また,パーソナルデータの提供者である生活者や従業員にとっての価値を正しく理解し,いかに信頼関係の構築,価値創出を行うかも重要である.
パーソナルデータの保護と活用は,以上のように極めて複雑な問題となっている.本特集企画では,サービス学の観点からこの問題に切り込むべく,次の4つのテーマを中心に,1年間記事を発行していく予定である.
- パーソナルデータの業界別活用事例
- パーソナルデータを活用したサービス開発方法
- パーソナルデータを適切に扱うための情報技術とサービス応用
- パーソナルデータとELSI
次節以降で,各テーマで想定している記事内容を簡単に紹介する.
パーソナルデータの業界別活用事例
パーソナルデータの活用は,B2C事業を中心に非常に多くの業界に渡って求められている.本企画では,業界別の具体的なパーソナルデータの活用事例をいくつか取り上げたいと考えている.
その例として,ヘルスケアサービスが挙げられる.パーソナルデータを利用したヘルスケアサービスには半世紀を超える歴史がある. 例えば,1960年代にスウェーデンで誕生した緊急通報サービスは,在宅ユーザーの体調急変を,ユーザー本人がボタンを押すことで宅外の救助者に知らせる仕組みであった.これは,ユーザーの状態をセンシングし,それに応じて何らかの介入に繋げるヘルスケアサービスの原型といえよう.その後,情報技術の発展とともに,健康増進や保健医療を目的とした様々なサービスが試みられてきた.
こうしたサービスの主な課題のひとつは,「どのようなサービス便益と引き換えに,どこまでのパーソナルデータをユーザーから提供してもらえるか」というものである.特に,ヘルスケアサービスには,先述の緊急通報のような直接人命にかかわるものから,日々の暮らしの中で健康増進を図るといったものまで幅広い目的があり,利用されるパーソナルデータも,遺伝子情報から玄関のドアの開閉まで多種多様である.さらに興味深いのは,こうした便益もデータ提供の度合いも,いずれも個々のユーザーの視点で判断されるため,一意に定まるものではないであろうという点である.これは,同じ仕組みのサービスであっても,例えばユーザーとのコミュニケーション次第で受容されたりされなかったりする可能性を意味する.
本特集では,こうした仮説を念頭に,パーソナルデータを利用したヘルスケアサービスの事例を取り上げたいと考えている.また,それ以外のサービス事例についても検討を行う.
パーソナルデータを活用したサービス開発方法
パーソナルデータを活用したサービスの開発プロセスは,多くの企業が頭を悩ませている点の1つであろう.データを取り扱う情報技術の発展と変化する法規制や社会の受容性に対応する中,開発の進め方についても未だ定まった方法がある訳ではない.本企画では,そのような中でサービス開発の一助となるような記事をいくつか取り上げたい.
その一案として,サービス開発段階における法人内パーソナルデータの利活用が挙げられる.コンプライアンス等の観点から,サービス開発を目的とした法人内でのパーソナルデータ利用についても近年制限が強まってきている.サービス開発を進めるためにパーソナルデータを扱うデータ運用者は,必ずしも法律の専門家ではないため,データの扱いに関する法規制の解釈の“正解”を導くことが困難である.そこで,いくつかの企業の取り組みを調査し,法規制を遵守しながら,本質であるサービス開発に注力できるような望ましい環境のあり方を探る.サービス開発環境の整備は,サービスの受け手にとっての価値の最大化にも繋がるだろう.
この他,組織内のパーソナルデータの運用や利活用に関し,役に立つ情報を発信したいと考えている.
パーソナルデータを適切に扱うための情報技術とサービス応用
パーソナルデータの利活用を安全に行うために,情報セキュリティ技術をはじめ,多くの新技術が開発されている.本企画では,特にパーソナルデータの保護と活用を両立する新技術の開発動向,さらに同技術が新サービスの実現にどう繋がるかについての議論を取り上げていきたい.
パーソナルデータの収集・活用にあたり,期待されている技術のひとつは,パーソナルデータの匿名化技術である.データを暗号化してストレージに安全に保管し,保管した暗号化データを活用したい人にどう戻すか,という「データ秘匿化」や「秘密計算」技術の研究者に最近の研究動向をご紹介いただく予定である.さらに,それらの技術がどんな関係者にどのような価値を生み,どのようなサービスに繋がるかを議論していただくことを予定している.
パーソナルデータとELSI
冒頭に述べたように,パーソナルデータの扱いを考える上で,現行,および今後の法規制の動向の理解は欠かせない.本年は個人情報保護法の見直し,改正が予定されており(個人情報保護委員会 2020),その他,関連分野の法整備も検討されている.本企画においても,サービス提供にあたり考慮すべき法規制と今後の動向について取り上げる予定である.
また,法的に問題なければ,社会の中で受け入れられる訳では必ずしもない.パーソナルデータの扱いには,倫理・社会的影響の側面を含む,ELSI(Ethical, Legal and Social Issues, 倫理的・法的・社会的影響)の観点で検討することが必要である.パーソナルデータの活用に関する倫理的・社会的影響については国際的にも広く議論されている(Stahl and Wright 2018).一方,この影響に対する考え方は,当該国・地域の文化や価値観に左右される.国際的にパーソナルデータの扱いや受け止め方がどのように異なるか,そのことがサービス研究やサービス開発にどのような影響を与えているかについても本企画では取り上げたいと考えている.
おわりに
本企画ではパーソナルデータの保護と活用をサービスの観点から取り上げる.本企画を通じて,サービスの開発や研究における,パーソナルデータの保護と活用に関する「もやもや感」が少しでも払拭できれば幸いである.
参考文献
Stahl, B. C., Wright, D., (2018). Ethics and Privacy in AI and Big Data: Implementing Responsible Research and Innovation. IEEE Security & Privacy, 16(3), 26-33.
経済産業省(2020).第1章第3節“我が国製造業の変革の方向性”, 2017年版ものづくり白書,
URL: https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/mono/2017/honbun_pdf/pdf/honbun01_01_03.pdf , last accessed on March. 4, 2020.
公正取引委員会(2020).デジタル・プラットフォーム事業者と個人情報等を提供する消費者との取引における優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方,
URL: https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2019/dec/191217_dpfgl.html, last accessed on March. 4, 2020.
個人情報保護委員会(2020).個人情報保護法 いわゆる3年ごと見直し 制度改正大綱,
URL:https://www.ppc.go.jp/files/pdf/200110_seidokaiseitaiko.pdf, last accessed on March. 4, 2020.
内閣官房(2020). デジタル・プラットフォーマー取引透明化法案(仮称)の方向性,
URL:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/digitalmarket/kyosokaigi/dai2/sankou2.pdf, last accessed on March. 4, 2020.
著者紹介
緒方 啓史
(株)東芝.HCD-Net認定人間中心設計専門家.博士(工学).2013年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了.2002年から2015年までアズビル(株)にて,高齢者にとっての製品・サービスの使いやすさの研究開発に従事.2015年から現職にて,福祉工学や認知工学を拠り所にサービスデザインや共創・協働のプロセス開発に従事.
渋谷 恵
2016年お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科修了.同年,NEC中央研究所入社.働き方研究に従事.専門は社会心理学,組織心理学.
安藤 裕
ユーイズム(株)リサーチフェロー.博士(知識科学).2018年北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科博士後期課程修了.2004年から2018年まで富士ゼロックス(株)にて,ドキュメントのユーザービリティに関する研究,コンサルティングに従事.2018年にGfK Japanを経て現職.心理学,感性工学を用いた製品・サービスのUX調査,コンサルティングに従事.
渡辺 健太郎
2005 年東京大学大学院工学系研究科精密機械工学専攻修士課程修了.民間企業勤務を経て,2012 年首都大学東京大学院システムデザイン研究科博士後期課程修了後,産業技術総合研究所.現在,同研究所人間拡張研究センター所属.博士(工学).専門は設計工学,サービス工学.サービス設計方法論,ならびに支援技術の研究に従事.