沈黙の春

私の住む北海道・知床は,世界自然遺産に登録された豊かな自然を誇り,エコツーリズムの先進地でもある.遺産地域の入り口に位置するウトロ地区は人口1,200人だが,宿泊施設の収容力は4,000人を超える規模を持ち,観光地としての歴史も古い.

この地もコロナ禍の影響を大きく受けている.例年,ホテルは満室となるゴールデンウィークだが,今年は非常事態宣言により,すべての宿・観光施設が休業し,駐車場や遊歩道も閉鎖された.こぶしの花が咲き,冬眠明けのクマが歩き回る美しい知床の春の風景は変わらなかったが,人間界の方はビジターの声の無い,沈黙の春を過ごした.

「ヒグマ出没により遊歩道閉鎖」

非常事態宣言が解除されれば,各施設は順次営業再開となるが,コロナウィルス感染症COVID-19の根本的な治療法は現在無く,ビジターも受け入れ側も,不安を抱えながら再開の準備している.一方で,観光は本質的に人の移動と交流が発生するので,感染リスク対策は必須である.この業界は, すでにノロウィルスなど,より感染力の強いウィルスに対処しつつ営業してきた経験がある.にもかかわらず,COVID-19に対する不安はこれまでとは異なる性質を持つように感じる.

我々が向き合っているのは,感染症そのものより,人間が根底に持つ,もっと大きくて,とらえどころのない「恐怖」という相手であろう.旅行は不要不急の活動で,観光は平和と安全を前提に成り立つ産業であるから, 「恐怖」は手強い相手である.

思うに,いまの状況は「ヒグマ出没により遊歩道閉鎖」の対応と似ている.知床は世界有数のヒグマの高密度生息域であり,2019年のヒグマ目撃件数は1,309件だ*1.自然を楽しむビジターが,遊歩道でヒグマと遭遇することは,さほど異常なことではない.ヒグマは積極的に人を襲うことはないが,人間を殺傷する能力を持つことは紛れもない事実である.ヒグマが出没した場合は,遊歩道を閉鎖するのがまず最初の対応である.

写真1.遊歩道を歩くヒグマ

閉鎖するのは簡単である.一方, 再開の判断は難しい.リスクがゼロになったら再開,ではないからだ.ヒグマは確実に存在するのだから,彼らを絶滅させない限り,ヒグマと遭遇するリスクはある.また,人々の恐怖を解消するために絶滅させるのは無理だし,そうすべきでもない.

知床の場合は,専門家が必要に応じて調査を行い,ヒグマが滞留するような誘引物(動物の死体など)がなければ利用再開となる.ヒグマは存在しているが,通常よりリスクが高い状態は確認されなかった,つまり,通常程度のリスクである,という判断である.ビジターには,ヒグマの活動状況,出会ったときの対処法などを伝えるサービスが用意されており,安心できる有料のガイド付ツアーに参加するという選択肢もある.

リスク(ヒグマがいる)と,対策(専門家の調査)を明示して,選択肢を提示(レクチャー,ガイドツアー)すること.これにより,ビジターが当初持つあいまいな恐怖を,手にとって扱えるリスクとして理解してもらい,信頼を得ることを目指してきた.

COVID-19も,知床のヒグマ同様,しばらく付き合わざるを得ない相手であろう.観光サービスができることは,取り組んでいる対策を明示した上で,ビジターの皆さんにルール遵守もお願いする,ということかと思う.場合によっては,ルールに従わないビジターは受け入れない,という態度も必要かもしれない.その前提として徹底的な情報公開による信頼の醸成が必須となる,というのが知床の例からの実感である.

写真2. 野生動物とのソーシャルディスタンスを測るツール

観光の価値は

しかし結局,リスクはゼロにはならない.住民からは,ビジターは感染リスクを伴うもので,受け入れなくてもいい,という声が上がるだろう.オーバーツーリズムに代表されるように,観光産業が地域に対して無責任だという批判もある.全産業が甚大な影響を受けている今,それぞれの地域が生き残るために守り育てていくべき独自産業の確立を模索している.その中で,観光産業の地位は危ういものになりつつある.

私は,観光地の住民あるいは観光業界自身が,ビジターをもてなすことを,少しへりくだったニュアンスで捉えていると感じることがある.近年,地域活性化の特効薬として期待されてきた観光産業であるが,コロナ禍で突然の苦境に陥ってからは,所詮水商売と揶揄する声さえ聞こえてくる.住民の方に十分な配慮をしつつも,観光の価値を誇り高く宣言できなければ,田舎の観光産業に未来はないように思う.

その価値はそれぞれの地域によって異なるだろう.例えば私は,観光は世界平和に貢献すると信じている.世界遺産を運営するユネスコは,戦争の反省から文明の相互理解のために設立された.世界遺産の価値を守りながら,国内外の旅人を賢く受け入れることで,平和への共感を創ることができる.それこそが世界遺産を有する知床の使命だと考えている.

旅は不要不急のものだから,withコロナの世界では, 旅人は本当に行きたい所にしか行かなくなるかもしれない.様々な制約を乗り超え,覚悟を持って訪れた旅人はある種の冒険者だ.その冒険者を,高いスキルを持つサービスのプロが誇りを持ってもてなす,そんな緊張感のある観光地は,悪くないと思う.

著者紹介

寺山 元

  • 一般社団法人知床しゃり事務局長.
    知床しゃりホームページ:https://www.shiretoko-sustainable.com/
  • 外資系コンサルタント,辺境地専門旅行会社勤務を経て,2006~2019公益財団法人知床財団にて野生動物対策・国立公園管理などに従事.2019年8月一般社団法人知床しゃり設立時より現職.
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