はじめに

筆者は,これまで人とロボットとのインタラクションやコミュニケーションについて議論するヒューマン・ロボットインタラクション(HRI)の研究に携わってきた.ロボットは研究道具の一つであって,必ずしも「役に立つようなロボット」を作ろうというのではない.どちらかといえば〈利便性〉という価値観を苦手としてきたところがある.
理由をいくつか挙げるなら,「利便性を備えたロボットを作ろう」と構えた途端に,「これでもか,これでもか」とアイディアや技術の競い合いが生まれてしまう.アイディアはなんとかなりそうだけれど,それに見合う技術を維持していくのはとても大変ということがある.そうしたことから,レッドオーシャンの世界で仕事をすることから,すこし距離を置くようにしてきた.これは一種の「逃げ」ということになる.
もう一つ気になっているのは,技術競争のなかで「肝心のユーザが脇に置かれたままになってしまう」こと.余計なお世話かもしれないけれど,「便利なロボットばかりに囲まれた生活はそんなに幸せなことなのか」などと考えてしまう.
例えば,確かに自動運転機能を備えたクルマは利便性の高いシステムであり,高齢者や障がい者など多くの方々にとっては朗報に違いない.しかし,冷静になって「クルマを運転してくれるシステム」と「それに乗せてもらう搭乗者」との関係を捉えてみると,わたしたちは「ただの〈モノ〉として運ばれているだけ」の状態となってしまう可能性もある.そこでは,はじめてハンドルを握り,ドキドキしながらドライブしたときの高揚感とか,幸福感はどうなってしまうのだろう.利便性を追求するなかで,「自らの能力が十分に生かされ,生き生きと幸せな状態」を指すウェルビーイング(well-being)の観点からは後退してはいないだろうか.
本稿では,サービソロジーという分野に寄せて,「サービスをあえて提供しないサービス(Service as no Service)」の可能性について論じてみたい.また,筆者らの〈弱いロボット〉の概念を紹介しながら,「サービスをあえて提供しない」ことから生まれる,ソーシャルなロボットとユーザとの新たなコミュニケーションの形について考えてみたい.

サービスをあえて提供しないサービス!?

「サービスをあえて提供しないサービス」とは,どのようなものだろう.ここで着目するのは,「すぐおいしい! すごくおいしい!」のチキンラーメンに施されている「くぼみ」の存在である.
麺のところになぜ「くぼみ」があるのか,すでにご存じの方も多いことだろう.正式には「Wたまごポケット」と呼ばれており,卵をのせると黄身がポケットにすっぽりと収まり,まわりの縁で白身をしっかりキャッチしてくれるという.
ほとんどの人は,なにも気にすることなく,お湯を注ぐだけなのかもしれない.この「くぼみ」は,必ずしも卵を落とすことを強いるものではないのである.「あれっ,きょうは卵をきらしていた」とか,「生卵などをのせていては,せっかくのスープがぬるくなってしまうではないか!」など,人はそれぞれ.こうした配慮はとてもありがたいものだろう.
インタフェースデザインとしてはどうか.「ここに卵をのせることができるよ!」との行為の可能性に関する情報をさりげなく提供しており,「アフォーダンス」や「シグニファイア」の一つとなるものだろう.また,人に対して強いることなく,その行動を上手に促しているという意味では,ヒジで軽く突くような「ナッジ(nudge)」として機能していると考えられる.
先の「サービスをあえて提供しないサービス」の観点からはどうだろう.ポイントとなるのは,「すべてを提供するのではない(unbuilt/unfilled)」こと.完全に調理されたものでも,製品の一部として生卵やノリなどが付属しているわけでもない.ただ,そこに「くぼみ」が存在するだけ.これがどうして「サービス」といえるのだろう.
人によっては,生卵をのせるだけでなく,きざみノリやネギをのせるなど,ちょっとした工夫や手間によってオリジナルな味を楽しむこともある.そうした関わりの中で,「うまくいった.きょうのは,とてもおいしい!」,「次第にコツがわかってきた」など,有能感や達成感,満足感などを得ていることだろう.
こうして,さまざまなトッピングを楽しんだり,その味をどんどんアップさせることができるのも,ベースにチキンラーメンのしっかりした味付けがなされているため.ユーザ(消費者)と商品メーカとのコラボレーションにより,オリジナルな味を生みだしているのだともいえる.
このように考えてみると,「工夫した甲斐があった!」,「なんだか幸せ!」など,ちょっとした幸福感を生みだす上で,この「くぼみ」の存在が鍵となっている.生卵やネギ,ノリなどをすべて用意しておくのではなく,むしろ,わずかな手間や工夫する「余白」を残しておく.こうした作り手の配慮(=サービスを提供しないサービス)が消費者の潜在的な強みや工夫を引きだし,どこか生き生きした幸せな状態をもたらすようなのである.
すべてを提供してもらい,あるいは完全に調理してもらうことで「利便性」を選ぶのか.あるいは「余白」を残してもらい「なんだか幸せ!」な気分に浸るのか.後者の価値観は,利便性・効率性に対して,「ウェルビーイング(well-being)」と呼ばれている.先ほどの「自分の能力が十分に生かされ,生き生きとした幸せな状態」のことだろう.
ライアンとデシらの自己決定理論では,「ウェルビーイング」を支える構成要素として,「自律性」「有能感」「関係性」の3つの要素を挙げている(カルヴォ,2017).
チキンラーメンの「くぼみ」との関係で捉えるなら,その「くぼみ」を利用するかしないか,生卵をのせるかどうかは,私たち自身の判断に委ねられており(=自律性や自己決定権の担保),さまざまなトッピングなどの工夫を加える「余白」の存在により有能感や達成感をもたらしている.また,チキンラーメンのベースに備わった味付けと自分たちの工夫とのコラボレーションが相まって(=関係性や一体感),ユーザ(消費者)のウェルビーイングをアップさせているといえるだろう.

〈ゴミ箱ロボット〉に備わる「余白」

筆者らは,自らの中では機能が完結できずに,他者からの手助けを予定するソーシャルなロボット(=〈弱いロボット〉)の研究を進めている(岡田,2017,2021).その代表例は,自らではゴミを拾えないけれども,まわりの子どもたちの手助けを上手に引きだしながら,結果としてゴミを拾い集めてしまう〈ゴミ箱ロボット〉である(Yamaji, 2011).

図1 〈ゴミ箱ロボット〉と子どもたちの様子

〈ゴミ箱ロボット〉と子どもたちとの関わり

一般的なサービスロボットとしての「ゴミ拾いロボット」を考えるなら,広場の中を動き回りながらゴミを見つけだし,それを自らの力で摘まみ上げ,屑箱まで運んで捨てるような自己完結した機能を備えたものを想定することだろう.こうした厄介な仕事を完全にアウトソーシングできるのなら,多くの手間も省けて,わたしたちの手助けとなってくれるに違いない.
しかし「ゴミを拾ってあげるロボット」と「ゴミを拾ってもらう人」と,その役割の間に線を引いた途端に,その間に距離が生まれ,その対象に対する共感性を失いやすいこともある.はじめは「便利なロボットだなぁ」と思いながらも,「もっと早くできないの?」,「もっと効率よく!」,「もっと静かにやって!」と,その要求水準をエスカレートさせてしまう.粗相してゴミなどをこぼそうものなら,「あなたはロボットなのだから,もっとしっかりやってね!」などと叱りつけてしまう,あるいは欠陥品としての烙印を押してしまうことだろう.なぜだか,こうした〈高性能〉で〈利便性〉の高いロボットは,わたしたちの傲慢さや不寛容さなど〈負の側面〉をも引きだしてしまう側面もあるようなのである.
一方のちょっと他力本願な〈ゴミ箱ロボット〉との関わりでは,どうだろうか.それは広場の中を群れながら,ただウロウロと歩くだけのもの.そんなロボットたちに関心を示した子どもたちが集まってきて,この〈ゴミ箱ロボット〉の思いを察してなのか,まわりからゴミを集めてきてくれる.
くわえて,〈ゴミ箱ロボット〉のなかに無造作にゴミが投げ込まれるのをかわいそうに思ってなのか,「この赤い子は,ペットボトル専用!」,「このねずみ色の子は,燃えるゴミだからね!」と勝手にゴミの分別などをはじめる子どもたちも現れる.
ちょっとポンコツな〈ゴミ箱ロボット〉の「へこみ」が,子どもたちの優しさや「強み」を引き出しているようなのである.子どもたちは自分よりも年少の子どもの世話に熱心で,その結果として多くのことを学んでしまうこと(=Protégé Effect)も知られている.〈ゴミ箱ロボット〉に対する子どもたちの思いやりは,子どもたちの「強み」を引き出すだけでなく,新たな工夫や学びを生みだしている可能性もある.
この〈ゴミ箱ロボット〉に対して,ゴミを拾い集めてあげている子どもたちの表情はどのようなものだろう.ゴミ拾いをしぶしぶ手伝っている風ではない.むしろ「ゴミを拾ってあげるのも,まんざら悪い気はしない!」とばかり,どこか生き生きとしており,とても楽しそうなのである.
先ほどの「ウェルビーイング」の観点からは,どうだろう.ポイントの一つは,子どもたちの「自律性」や「自己決定権」が担保されている点である.「ゴミを拾ってあげるかどうか」は,子どもたちの判断に委ねられている.手伝うことを強要されているわけではない.このとき〈ゴミ箱ロボット〉のヨタヨタ感は,子どもたちの思いやりを引き出し,「ゴミ拾いの行動を促す」ような,一種の「ナッジ」として機能するのである.
もう一つは,「自分にも〈ゴミ箱ロボット〉のことを助けることができた」,「一緒に広場のゴミをなくすことができた」など,子どもたちなりに有能感や達成感を覚えるのだろう.その意味で,この〈ゴミ箱ロボット〉のことを助けることのできる者として,この関わりの中で新たに価値づけられるという側面もある.
さらに,他の子どもたちやロボットとの関係性とか,つながり感にも着目したい.一緒に目的を果たすことができた,あるいはその場や目的を一緒に共有していることに喜びを感じているのかもしれないのである.
残念ながら,子どもたちの「心のなか」は,直接に見ることはできない.その多くは推測にすぎないけれども,この〈ゴミ箱ロボット〉に備わる「余白」,あるいは機能上の「へこみ」が,結果として子どもたちの幸福感,つまりウェルビーイングを向上させる契機となっている可能性がある.

〈ゴミ箱ロボット〉とのコミュニケーション

〈ゴミ箱ロボット〉に,わたしたちも理解可能な「日本語」を話させてはどうかとの議論がある.テキストからの音声合成の技術を利用すれば,それほど難しいことではない.ただ,いくつか留意すべき点もある.
オリジナルな〈ゴミ箱ロボット〉では,子どもたちにゴミを拾ってもらったことに気づくと,上半身を軽く屈めることをする.そこに言葉はないけれど,その振る舞いに対して,「ゴミを拾ってくれて,ありがとう!」とか,「もっと拾って!」など,さまざまな解釈が行える.「これだけでは曖昧なのではないか!」との見方もあるけれど,この解釈の「余地」や「余白」も重要なインタラクションデザインの要素となるだろう.
では,日本語を使った場合はどうか.ゴミを拾ってあげたら,それに気づいて「どうも,ありがとうございました!」などの発話であれば,特に問題はなさそうに思われる.しかし,ゴミに気づいたときに,「ゴミを見つけました,ゴミを見つけました!」と発していたのでは,どこか煩く感じてしまう.くわえて,〈ゴミ箱ロボット〉からゴミを拾うように指図されているように聞こえてしまい,具合がよくないのである.
ロシアの文芸評論家のミハイル・バフチンによれば,「不完結な言葉は内的説得力を持つ」という(バフチン,1996).自らの中で自己完結した言葉は,「権威的な言葉(authoritative discourse)」と呼ばれるように,聞き手との間で調整の余地を持たず,強く,きついものとなってしまう.
例えば,ロボットからの「ゴミを見つけました,ゴミを見つけました.直ちに,そのゴミを拾ってください!」などの発話は,その意味するところは明確だけれども,わたしたちがロボットから一方的に指図されているようで,どこか気持ちも離れてしまう.
その一方で,聞き手に半ば委ねつつ,一緒に意味を作り上げるような「不完結な言葉」は,聞き手との間で調整の余地を持つのだという.どこか納得感もあって,結果的に説得性を伴うようなのである.
そこで,新たな〈ゴミ箱ロボット〉で試みているのは,「もこ語」という半分節音の導入である.
広場の中を〈ゴミ箱ロボット〉たちがつかず離れず歩きながら,「もっこもん,もっこもん!」と口ずさんでいる.たまたま床の上のゴミを目にしては「もこ!」といいつつ,そこに立ち止まる.あたりの人を探しては「もこー!」.誰かにゴミを拾ってもらうと,軽く上半身を屈めながら「もこもんもん!」.そうして「もこもん,もこもん!」と口ずさむようにして,また歩きはじめる…….
この「もこー!」や「もこもんもん!」などの言葉の意味は完結したものではなく,聞き手に対して開いている.「どう解釈してくれてもいいよ!」というわけで,聞き手との間でオリジナルな意味を見いだせてもおもしろい.例えば,「もこもんもん!」は,人によっては「ありがとう!」の意味で解釈されたり,「もっと,もっと」,「もうひとつ,もうひとつ!」と聞こえてもいい.
この多様な解釈を生みだす「余白」は,聞き手の積極的な解釈やそれに伴う納得感を生み出すために必要な曖昧さと考えられるのである.

ロボットの言葉足らずな発話が生みだす豊かなコミュニケーション

筆者らの〈弱いロボット〉の仲間には,ここで紹介してきた〈ゴミ箱ロボット〉の他にも,街角でオドオドしながらポケットティッシュを手渡そうとする〈アイ・ボーンズ〉,一緒に手をつないで歩くだけの〈マコのて〉,部屋の中をフラフラと彷徨うだけの〈ペラット〉などがある.
また,こうした〈弱いロボット〉の概念を言語的なコミュニケーション領域に展開したものとして,聞き手の目線を気にしながらオドオドと話そうとする〈トーキング・アリー〉(松下,2018),言葉足らずな発話で今日の出来事を懸命に伝えようとする〈む~〉(西脇,2019),子どもたちに昔ばなしを語り聞かせようとするも,ときどき大切な言葉をモノ忘れしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉(小野田,2021)などがある.

言葉足らずな発話により情報を小出しにして伝える〈む~〉

一般的に他者とのコミュニケーションにおいては,過不足のない,流暢な発話が求められてきた.筆者らの〈む~〉と呼んでいるソーシャルなロボットでは,むしろ,いい直しやいい淀みなどを含んだ非流暢な発話やちょっと言葉足らずな発話で,今日のニュースを懸命に伝えようとするところに特徴がある.これには,どのような意味があるのだろう.
ここで手本としたのは,小学校から帰ってきたばかりの子どもが母親などに今日の出来事を語って聞かせようとするような場面である.
「きょうね,いっぱいあそんだ!」(えっ,だれと?),「そらちゃん」(へ~,なにしてあそんだの?),「おえかきした!」(あー,そうなんだ!),「ひなちゃんもいっしょ」(へぇ~,たのしかった?),「うん」……
不完全で言葉足らずなところもあるけれど,お母さんからの手助けや積極的な解釈を上手に引き出しながら,なんとかおしゃべりを続けてしまう.過不足なくしっかりと話せる子どもの発話と比べても,この言葉足らずでの発話のやりとりは,むしろ豊かなコミュニケーションを生み出しているようなのである.
こうした場面でどうして言葉足らずな発話となってしまうのか,さまざまな解釈が可能だろう.一つには,「すべてを伝えなくとも,察してくれるのではないか.ここは手を抜いてしまおう」などと省力化を狙っているとも考えられる.あるいは,そもそも伝えようする内容が整理できていなかった.「その会話の中で考えを整えていこう!」との方略もあるのかもしれない.
あるいは,お母さん(=相手)の関心にあわせて,必要最小限の情報だけを伝えていけばいいとの考えもある.あらかじめすべての情報を伝えていては,相手の関心を置いてきぼりにしてしまう.ならば「相手に半ば委ねるようにして,必要な情報を少しずつ添えればいいじゃないか!」というわけである.
それと言葉足らずな発話だと,どういうわけか聞き手が身を乗り出してくれることもある.相手からの共感的な関わりを引き出すための一つのテクニックなのかもしれない.そこで相手と一緒に楽しかった思い出を分かち合いたい.そのために一緒に発話を補いあう場を必要としていたとも考えられるのである.
スマートスピーカからの発話は,過不足なく流暢なものだけれど,どこかよそよそしく感じないだろうか.スピーカからは音は聞こえてくるものの,自分に向けて話しかけられている感じがしない.「とても丁寧で,どこも落ち度がない!」にも関わらず,その一方的な発話は,聞き手のことを置き去りにしてしまうのである.

図2 〈む〜〉とのインタラクションの様子

ときどき大切な言葉を物忘れしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉

このようにロボットからの言葉足らずな発話などを検討していくなかで生まれたのは,子どもたちに昔ばなしを語り聞かせるも,ときどき大切な言葉を物忘れしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉である.
「むかし,むかしね,あるところにね」「おじーさんとおばーさんがいました」,「おじーさんは山に柴刈りに,おばーさんは川に」,「えっとー,なんだっけ?」……
ロボットが物忘れしてしまうのも妙な話だけれど,「あれっ……」「えっとー,なんだっけ?」などと困った仕草をすると,まわりの子どもたちは目を輝かせはじめるということがある.
子どもたちからの「せんたくにいったんじゃないの」との手助けに,「それだ!それそれ!」,「せんたくにいったんだった」,「それでね,おじーちゃんはね,川にせんたくにいきました」,「すると川のなかから,どんぶらこ,どんぶらこと……」,「あれっ,えーと,なにが流れてきたんだっけ」…….
こうしたロボットの頼りなさを目の前にして,子どもたちは懸命に〈トーキング・ボーンズ〉の助けになろうとする.「なにを困っているのか」,「なにを思い出そうとしているのだろう」と,ロボットの志向を自らのなかに住まわせ,「ああでもない,こうでもない」と考えを巡らす.こうして一方的な語り聞かせに比べて,子どもとロボットとのコミュニケーションはとても豊かなものとなるのである.
ロボットが淡々と昔ばなしを語り聞かせるだけなら,子どもたちはすぐに退屈してしまうことだろう.その意味で,ロボットの「へこみ」(=記憶の不完全なところ)が子どもたちの強みや優しさを引きだしている.
子どもたちにとっても,昔ばなしの中身はおぼろげなものでしかない.子どもたちと〈トーキング・ボーンズ〉とは,お互いの〈不完全なところ〉を補いあいながら,その〈得意なところ〉を引きだしあうような,持ちつ持たれつの関係を作り出すのである.
こうした場の中にあって,子どもたちはとても生き生きしており,幸せそうな表情をしている.ロボットを手助けできたことに喜びを感じているのだろう.ちょっとした有能感とか,達成感とか,お互いのつながりから生まれるものではないだろうか.

図3 〈トーキング・ボーンズ〉とのインタラクション

まとめ

コロナ禍での自粛生活にあっては,図らずも他者との関わりや関係性の重要性を再認識することになった.まわりから遮断されているときの空虚さ,不安感というのは,だれにも頼れない,依存できないという不安だけでなく,だれからも予定されていない,必要とされていないことから生じていたとも考えられる.
わたしたちは,だれかに手伝ってもらえたときうれしく感じる.それ以上に,だれかの手助けとなれたり,一緒になにかを成し遂げることができたときにも,うれしい気持ちになる.それは自らの能力が十分に生かされ,生き生きとした幸せな状態とも重なる.
本稿では,これまでの利便性や効率性という価値観に加え,わたしたちにウェルビーイングな状態をもたらすような,〈弱いロボット〉とのインタラクションデザインの一端を紹介した.
一方的にサービスを提供するだけでなく,ユーザの参加する余地をどうデザインするのか,そこでユーザの強みや工夫をどう引き出すのか…….ここで「サービスをあえて提供しないサービス!?」の概念として紹介したように,サービス提供における「余白」のデザインなども,今後の研究テーマの一つとしておもしろいのではないかと考えている.

参考文献

Yamaji, Y., Miyake, T., Yoshiike, Y., De Silva, R., and Okada, M., (2011). STB: Child-Dependent Sociable Trash Box, International Journal of Social Robotics, 3 (4), 359-370.
岡田美智男(2012).『弱いロボット』,シリーズ ケアをひらく,医学書院.
岡田美智男(2017). 『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』,講談社現代新書,講談社.
小野田慎平,西脇裕作,窪田裕大,大島直樹,岡田美智男(2021).子どもたちはときどきモノ忘れするロボット〈Talking-Bones〉とどのように関わるのか?- フィールドにおける調査結果とその考察,ヒューマンインタフェース学会論文誌,23(2), 213-226.
西脇裕作,板敷尚,岡田美智男(2019).ロボットの言葉足らずな発話が生み出す協調的インタラクションについて,ヒューマンインタフェース学会論文誌 21(1),1-12.
松下仁美,香川真人,山村祐之,岡田美智男(2018).非流暢性を伴うロボット(Talking-Ally)の発話調整方略とその聞き手に対する適応に関する研究,ヒューマンインタフェース学会論文誌,20(2), 255-268.
ミハイル・バフチン(伊東一郎訳)(1996).『小説の言葉』平凡社.
ラファエル・カルヴォ,ドリアン・ピーターズ(渡邉淳司,ドミニク・チェン監訳)(2017).『ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術』,BNN新社.

著者紹介

岡田美智男

豊橋技術科学大学 情報・知能工学系教授.1987年東北大学大学院工学研究科情報工学専攻博士後期課程修了.NTT基礎研究所情報科学研究部,国際電気通信基礎技術研究所(ATR)などを経て,2006年より現職.専門分野は,ヒューマン・ロボットインタラクション,社会的ロボティクス,コミュニケーションの認知科学.主な著書に,『弱いロボット』(医学書院),『〈弱いロボット〉の思考』(講談社),『ロボットの悲しみ』(共著,新曜社)などがある.

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