本特集では,サービスにおけるコミュニケーションの意味やその促進のためのAI技術の利活用に関して考察する.特に人間(個人:individual)がどうあるべきかという本質的な問いに対して,文化人類学の非西欧的文脈から生まれた分人(dividual)概念(Strathern, 1988; Bruno and Rodriguez, 2022等)を踏まえ,本稿では,人を「個人」ではなく「分人」とみなすことで,デジタル社会において求められるコミュニケーションでの振る舞いがどのように変わり得るのか,また,どのようなAIと人間の協働関係があり得るのかについて,価値共創を促進するコミュニケーションの観点について,インタビュー形式で論考を行う(本インタビューは2025年4月4日に国立情報学研究所にて実施された).
AI倫理が前提とする個人概念への疑問
増田 武田英明先生は,人工知能研究からWeb研究,また,AI倫理等,情報学における研究に携わられていますが,分人という概念に注目されるようになったその背景について教えてください.
武田 私はちょっと変わり者の研究者です.そもそも学生の時から人工知能を研究していたわけでもなく,そもそも情報系ですらありませんでした.縁があって研究者になったことを機に人工知能の研究に入ったという人間です.当時は90年代で人工知能の冬の時代であったわけですが,まずはその以前からの研究を引き継いだような知識ベースシステムの研究を始めました.一方,90年代はウェブが始まった時代でもあるわけです.特に知識の研究をしていた人間としては,ここに知能や知識があるようになるに違いないと思いました.始まったばかりの頃は,大学の研究室のウェブページぐらいしかなかったですけど,私はここに知識がたまってくるんじゃないかと考えて,ウェブを研究しようというふうに思い,研究を始めました.当時の始まった頃はこんなウェブといった,ボランティアが作るような情報に何も知識なんて入ってこないと,結構みんな懐疑的でした.今,振り返ってみれば当たり前にはなっているわけですから不思議なものです.始めた頃には知らなかったのですが,その研究とは人工知能とウェブの間をつなぐセマンティックウェブという分野の一部であることがわかり,結果としては気づいたらこの分野の研究者になっていました.その以降はセマンティックウェブというトピックで研究をしてきています.その研究の流れの中で,静的なウェブページだけでなく,動的なウェブページであるSNSにいろんな社会的な知識が入ってくるということで,SNSの研究も一時期やっていました.
そうしているうちに,今度はAIの第3次ブームが起き,やっとウェブにあるような日常的な知識を扱えるAIができたわけです.今度はこれだけ身近になったAIが,つまり普通の日常にもかかわるようなAIが出てきたときにどうするんだという問題意識から,AIの倫理の話ということも考えるようになりました.そんなことをやっているうちに,特にAI倫理の勉強をしているときに,AI倫理の背景にある人間に対する考え方に対して,疑問が生じたというところから今回のテーマである分人という話を考えるに至ったということです.
増田 その疑問はどのようなものだったのですか.
武田 2001年に『A.I.』というアメリカの映画があって,子ども型ロボットがある種の自我を持って騒動を起こすちょっと悲しいストーリーなのですが,人工知能学会でそのレビューを書きました(石塚等,2001).この子どもは人間なのかロボットなのかということで,本人も周りも悩むというようなストーリー立てになっていましたが,そこに相当の違和感を感じました.
なぜそこの区別をしなければいけないのか.そこには西洋的な概念の,人とはこうあるべし,というそういうものがある.ロボットと人間は区別しなきゃいけない.だからそこを区別するというところに葛藤するという映画になる.その映画は日本ではあまり受けなかったのですが,そこを区別することに重点を置くことは日本人には多分入ってこない.日本はそもそも『鉄腕アトム』から,いろんなロボットストーリーがたくさんありますが,そこを区別することに何か問題があるというようなことはそれほど出てこないんです.
ここの深いところは,実はロボットの位置付けではなくて人間の位置づけ方なんです.人間とは,というと個人という考え方になるのが普通ですよね.この個人という考え方はわれわれも今,当たり前に持っていますが,これは実はそんなに古い概念ではない.人間が必ず個人であるべしという考え方は別に人間にとって常に真とはいえない.これはヨーロッパで作られたある種の概念であるということが,あとでわかってきました.
なぜそこに違和感があるのか.そもそもこれはいわば,あくまで哲学上の概念であって,今の近代社会は西洋,ヨーロッパから始まったものであり,ヨーロッパの近代社会にそれが当然のようにくっついてきたということで,われわれもそれを当たり前のように受け入れてきました.だけど,実はそれは別に当たり前ではない,ということが,私にとっての気づきであったということです.
これが,先ほどのAIの倫理の話につながっていくのですが,AI倫理で一番冒頭に出てくるのは「ヒューマニティを守る」ことであると書いてあります.ヒューマニティというのはこれはよく人間性とか訳したりしますが,要は「個人を守る」なんですね.ここがAI倫理のスタートラインになってしまっているところに,あれっと思うわけです.
分人という概念について
武田 「個人」は実は西洋で作られた概念であって,必ずしも世界中共通でもない.文化人類学のほうで,実は分人(ディビジュアル)という概念が使われていた.文化人類学の人がまさに西洋以外の文化を調べているうちに,なかなか西洋の「個人」という概念ではうまく説明ができず,ある種の作業仮説として「分人」というものを置いたらもっと説明ができるようになる,というかたちで出てきた.それが私にとって,まさに違和感をうまく説明してくれるものではあったということです.こういう考え方でなら,今,起きている問題をよく見えるような見取り図が描けるんじゃないかということで,最近,この分人に対する考え方を進めているということになります.
日本語で「分人」という書き方をしているものは,作家の平野さん(平野啓一郎,2012)が書かれたものを参照していることが多いです.日本語で「分人」を書いたのは平野さんが最初なのかはよくわからないのですが,よく知られています.ただ,平野さんの書かれたものはエッセイや小説であったりするのでそれほど具体的なことは書いていない.彼の体験的なもので,一人であることに意味がない,のような,あるいは,一人であることに固執する必要はない,というようなメッセージで説明されている.この辺りいろいろ調べていくと,別に西洋でも哲学的に見れば分人は新しい概念ではないということは言われていて,その概念は大体私が思っていた直感とも合っていたため,この問題はやはり避けて通れないだろうと思いました.
特にAIが社会に入ってくる時には,AIから人を守らなきゃいけない.ただその守るものは何なのだろうかという,AI倫理の本質的な問題になるわけです.その途中にある,まさに今われわれが住んでいる社会ですら,もう既に「個人」ではうまく説明がつかない.それをあえて説明を無理やりつけているところが,むしろ今の問題としてある.その点も含めて,「分人」という概念があることが,むしろ今の社会をよくすることにも役立つのではないかと思っています.
ただ,最初に言ったように,「分人」は現代のヨーロッパやアメリカ型の思考では基本的に出てこない話なので,「分人」はヨーロッパやアメリカ型のAIの取り組みではほとんど見られず,こういった議論になってこないところがあると思います.こういうことを真剣に考えている人は今のところなかなか見つかっていないですね.
ただこれは人が本質的に違うといっているわけではありません.そういう文化で生まれ育ったからそうなったという,文化の違いですね.例えば,個人が大前提の社会に暮らしていれば,もう必然的にそういう振る舞いをするようになるわけです.そういう文化で育っていれば,それが身につく.だから違う文化に育てば,違う人のあり方であったり,違う表現の仕方ということもある.その辺はもちろん文化人類学的なアプローチですが,残念ながらAI研究においてはそれを正面に捉えるような研究はなかなか表に出づらいところはあるという気はします.研究の主流はどうしても西洋の人たちが握っているという前提があるので,しょうがないのかなという感じがありますね.
分人型社会の提案
増田 武田先生は「分人型社会」を作ることを提案されています.分人型社会がどのようなもので,なぜそのような社会が求められるのでしょうか.
武田 分人に関して皆さんが言っていることをまとめると,人を一つの個人として考えるのではなく,いくつかの分人の集まりとして考えるほうが,人をうまく表現できるということです.個人,英語ではインディビジュアル(individual)ですが,これは分けられないという意味です.つまり,ひとりは分けられない存在であるとされます.それに対して,分人,英語ではディビジュアル(dividual)と書きますが,分人の基本的な考え方では,人は一つではなく複数の分人からなる,というふうに考える.
そもそも分人とは別に誰かが強制して作ったものではなくて社会の中で自然とそうなるのであって,それならば分人を基盤に社会を構成した方がいいということで,それを私が分人型社会と呼んでいます.今の世の中を見ていると,ひとりの人を個人として見なすとは違う社会が既にできているんじゃないかと思います.その一番いい例が,SNS等のネット社会であって,ネットワークにいる人がひとりの物理的な個人を代表している.それでネットワーク上にいる人は,そこにいるある種の人格なり何かで評価されるし,そこでのコミュニケーションがなされる.そのときに,物理的,あるいは社会的な個人に紐づくことはその社会の中で要求されない.アバターあるいはVTuberは,そのアバター/VTuberとして存在しているのであって,中の人がいても,それはVTuberと引き離された個人として存在している.VTuberは個人に帰属するという関係ではない.それがもう既に十分受け入れられている社会なわけですね.
既にわれわれの社会は,分人とは呼ばないにしても,そういう分人というものを受け入れてしまっているところがある.それならば分人というものを受け入れる社会を作ったほうがいいのではないでしょうか.今まで暗黙的に既に入っているものを分人型社会として明示化したら,仕組みがもっとシンプルになるだろうということです.
増田 今もYouTubeなどのSNSでは,VTuberをはじめ,いろんな人が活動をされていますが,分人型社会としてこの辺りの活動を整理するということは,そういう活動をどんどん増やしていくという意味合いになるのでしょうか.
武田 要するにそういう人の活動を,分人権みたいなもので認めてあげるということですね.それは単なる仮初めのものではなく,一個の固有の権利があるといってあげたいわけです.今はそれは社会的にも法律的にも存在しない,非常に曖昧な存在です.VTuberは一番いい例です.例えば,VTuberは法律的にはどこに権利があるかよくわからないし,社会的にも何の権利があるのかよくわからない.ただもう既に社会にいて,そのギャップで実際にトラブルが生じたりするわけです.そういうトラブルがあるのだから,むしろ積極的にその権利を認めるほうがいいのではないかと思うわけです.
増田 分人型社会において人権的なものを複数持っている場合,その活動の幅はどのように広がっていくのでしょうか.
武田 分人としてのある種の権利が認められれば,個人はある側面だけの一つの分人としての活動をして,そこでコミュニケーションなり,ビジネスなりをやり,レピュテーションや収入なりを得る.義務ももちろん生じるわけですね.だから,理想的には多分税金もその単位で払う.そういったことができれば,ひとりの人が,切り離されたかたちで複数の仕事を持つことができる.一つに縛られないことで,個人にとっても活動の幅が広がる.社会的にも,まさに人口が2倍,3倍になる意味があるわけですね.日本の少子化に対しても,物理的人口は減っていきますが,社会的人口は増えていきますといえるわけです.
増田 そのような活動はインターネット上というところがポイントになりますか.
武田 それは必ずしもインターネット上だけとはいえません.日本国内でも,例えば石川県加賀市がある種のバーチャル住民票(e-加賀市民)みたいなものを作っています.この元のアイデアはエストニアからで,エストニアではe-residencyというものを作っており,国外の人も登録可能です.銀行口座が作れたり,会社が作れたりとか,そういう権利を与える.これは,ネットワーク上というよりは,異なる地域で人は複数存在し得る例になります.バーチャルの世界じゃなくても,リアルの国に二つの国籍を持てるとか,あるいは,日本国内で二つの住民票が持てるとか,それは複数の地域で活動するということを意味しているわけです.
増田 現在,東京で働きながら地方でもという働き方も出てきていますね.
武田 単純にリモートワークをするのであればバーチャル住民票は要りませんが,例えば,二つの地域での2拠点生活をして,2拠点で別々の仕事をするなんてケースがあったときには必ずしもその二つの仕事が紐づいている必要もないわけです.そういう時には分けてもらったほうがどちらの活動もしやすくなる.社会から見れば兼業かもしれないけど,本人から見れば別の人格として働いています,というふうに言えるようになる.
増田 そういう社会になった時の問題のところは何かありますか.
武田 そもそも人とはなんぞやということを変えてしまうわけですから,より根本的な,たくさんの問題をはらんでいると思います.もちろん物理的,社会的個人は一つであることには変わりはない.最終的な体が属しているところは一つあり,ただその上の部分,どうやってそれを社会構造にマッピングするのかというところで違いが出てくる.そこに新しい制度を持ち込めば,当然いろいろと難しい問題が起きてくる.物理的な個人と社会的な分人がどう結びつくのか.例えば,病気をしたらどうなるのかという話になるわけですね.病気は多くの場合,物理側の個人に起因する.その場合,社会的な分人はどうなるのか.そういった役割分担がどうなるのかという問題は当然出てくると思います.
もちろん法制度的な課題もあり,また,社会的な課題として,そういう取り組みを受け入れるかどうか.受け入れる人と,受け入れない人がいたときに,軋轢が起こる.私はこの分人で働いています,と言ったときに,本人を出せみたいな話になる.いや,本人はいないんです,これが私です,と言っても,納得してくれないということは十分あり得るでしょうね.
ただその辺は,既にわれわれの社会は,かなりの部分が分人化されてしまっているという現実を見れば,実は本質的に難しいところはそんなにないのではないのかと思っています.まさにバーチャル住民票を作りましょう,みたいな話があったときに,割と抜本的に制度を変えなくても,それが結構実現できる可能性はある.むしろ,今までやっている活動を追認するようなことが多くなるのではないでしょうか.
分人型社会のコミュニケーション
増田 SNSを用いたコミュニケーションが,分人型社会においては,どのように変わり,また,どのような新しい価値の実現に繋がると考えられますか.
武田 これはもちろんSNSの社会やネットのプラットフォームに,ある種のお墨つきを与えるというか,ある種の権利を与えるということになります.それでいい点と悪い点があるわけです.例えば,日本国の法律が適用されるのは,基本的には日本国民という個人ですね.もし分人を認めたとき,それは日本国民なのかといわれると,甚だ怪しいわけです.そうなると,SNSのそこでのメンバーということで,別の社会が作られる.それを認めるということが一つの分人型社会のメリットであるわけです.その代わり,そういったSNSプラットフォーム等に権利があるとするならば,ある種の義務を作らねばいけない.自治であったり,ある種のルールであったり,そこが荒野になってはいけないわけで,こういうことは当然求められる.SNSでのいわゆる自立性が認められれば,例えば,そこでの活動は日本国の法律にしばられないということになるわけです.そういった自由を得ることができる.その代わりSNS側にも一定の責任が生じる.それはまさに国を超えたつながりとかそういうものが作られる.まさにSNSでしかできないような活動がそこでできるようになるという意味ではメリットがある.
今でも別に匿名でSNSに入ることができるものもあるわけです.ただ,匿名で入れるけれども,日本の法律に従えば,ある種の申し立てがあれば,実名との結びつきが出てくるという仕立てになっていますよね.逆に,SNS側で自由にユーザーを削除するということができてしまうと,運営者側の都合で自由にやれてしまう.その辺も,もし一定の権利を与える代わりに義務が生じるのであれば,ある種の自治ができるのではないかという期待はあります.だからそういった意味で,よりデジタルな活動が自由になれば,先ほど例に出したVTuberのような世界もある種の権利を主張できるということになり,それでVTuberの活動がより自由になるわけです.
増田 現状はYouTube,Instagram,TikTokなどの各SNSのプラットフォーマーの取り組みにより,そういう場が提供されているわけですが,そのプラットフォーム上での権利をどう築き上げていくのでしょうか.
武田 現実はそういうプラットフォームの上で暗黙的に,あるいは明示的に何らかのユーザーの権利が作られて運用されている.ただ,それはかなりグレーな世界ですよね.もう運営者が神様みたいなものでやっているわけです.もし分人が認められるのであれば,SNSの運営者が神様の世界では困るわけです.分人型社会では一定のルールなり自立性が求められ,それが満たされなければ分人型社会ではないということです.私の提案している分人型社会ではなんでもかんでも分人といっていいといってるわけではありません.ある種のコミュニケーションの安定性みたいな骨子がある場を持っている場合に,分人と呼ぼうといっています.そこは平野氏のいっていることとは少し違っています.平野氏の場合は2人が出会って,その2人の間でそれぞれ分人ができてしまうといっていますが,そこまで細かくは分けていません.
増田 現状のSNSのプラットフォーマーであるサービスの提供側が強い権利を持っているところを,公共化したいという観点もあるのでしょうか.
武田 公共という言い方はいい言い方で,分人はそういう仕組みを持ち込む仕掛けでもあるわけです.現実は多くの場合,もちろんルールが書いてありますが,ルールを適用するかどうか判定するのは運営者の一存でもありますよね.プラットフォーム側はそういう仕組みになってしまっていて,いわばユーザーの“人権”なんて存在しないわけです.現在のSNSのインフルエンサーはプラットフォームの恩恵を受けていますが,その一方で,運営者の気に食わないことをやればバンされてしまう.そういう意味で,彼らが権利を持っているかというと,権利は持っていないわけです.現実にそういうことが既に起きているのだから,その人たちの権利の保証をどうしたらいいかということです.それはもちろん個別に対応することもそうだし,もっと広く分人としての活動を保護すべきだというふうに決めれば,より包括的な解決ができる.そうすることで社会的にはより安定した社会を作れるのではないかということです.
増田 リアルな活動をSNSで補完するような,完全にその辺りを切り離さない取り組みもありますね.
武田 そういうミックスの人は,ミックスでいいと思います.ミックス自体,それはもう,そういう分人ということです.ただその人にだって,さすがにプライベートがあり,プライベートとは切り離しているわけですよね.もちろんプライベートがミックスされてしまうということは十分あって,それは本人が望むことである場合もあるし,望まないこともあるわけですね.最近のYouTuberは その辺をちょっとまぜこぜにしてやっている人もいるし,結構それぞれです.今のところ,それに対する選択肢は何もないので,YouTuberとして活動をしていても,いつでも身バレして,プライベートと同一視されるというリスクにさらされながら活動しているということですね.
増田 先ほどのバーチャル住民票のような話では,二重国籍もそうかもしれませんが,ある状況で適用されるルールのときはその権利が使われるといった,いろいろな権利を状況に合わせて使い分けられることを保障していく方向になるのでしょうか.
武田 そうです.例えば,加賀市にバーチャル住民票(e-市民制度)があった場合,加賀市に行った時にはそれが適用される.一方で,加賀市を離れ,それ以外の地域にいるときは元々の住民票が使われるとか,そんな使い分けになるのだと思います.
増田 確かに,現実的にいろいろな状況があるので,一つの権利に縛られるのではなく,権利も状況に合わせて適切なものを適応するほうが,より良い社会という感じがします.
武田 この複雑な社会において,個人にすべての権利を集約しようとすること自体がもう無理なのではないかとも思います.
分人型社会におけるAIとのコミュニケーション
増田 今の生成AIを始めとするAIの展開において,分人型社会を導入することは,人間とAIとの関係性構築においても影響を与えるのでしょうか.
武田 情報化社会に入っていった時にいわれたことで,情報洪水があります.どんどん情報が生産され,人や社会に届けられ,その情報に反応しなければいけないということで,情報洪水.今後,AI社会になることで何が起こるのかという点では,僕は知性の洪水のようなことが起こると思っています.要は,いろんなサービスなりモノなり,みんなAIがやるようになると,賢くなってコミュニケーションが取れるようになる.それは逆にいうと,人間がAIに対応しなければいけないということで,人間の負担が増える.知性の洪水は,われわれの内面的な問題にも入ってくるので情報洪水より深刻になる.
知性の洪水に対して人はどう対処するかというと,人もAIの助けを借りる.つまり,外部のAIに対して人が応答するのではなくて,AIが応答する.いわゆるAIエージェントの考え方ですね.もう生身の人間は直接コンタクトを取らない.必ず自分のAIを介してコンタクトを取る.結局,外のAIと私のAIが会話をするということになる.
外のAIと応答する私のAIは,別に一つである必要はない.今,LLMの万能性が議論されていますが,AIもいろいろ特化してくると思います.こういう対応でうまく回るAIとか.その時にAIを使い分けるということが起きてくる.こういう場面にはこのAIエージェントでやってもらいたい.こっちの場面はこういうAIにやってもらう.あるいは,ここはAIを介さないという,そういう使い分けになる.
AIを使い分ける時にも分人化が起こると思います.この場合の分人は,いわば自分のAIエージェントとワンセットで一つの分人になる.例えば,自分の仕事をするためのAIエージェントを作って,仕事のときはこの分人でやります.趣味のコミュニケーションは,そっちのAIエージェントでやります,あるいは,家族とのコミュニケーションは,AIエージェント無しでいきます.こういったAIエージェントの分身は,勝手に仕事をすることになります.24時間働くことで,生産性は何倍にもなるわけですね.ここから先はAIに自律的に任せますというふうになれば,それもやはり一つのAIエージェントに任せるよりも,複数の分身AIエージェントに分けたほうが多分うまく回る.
ある種のセキュリティ的な意味においてもAIエージェントの使い分けが必要になってくる.例えば,仕事のエージェントと家族のエージェントは混ぜたくないとか.得られた情報や知識も分離させたいとなれば,当然AIエージェントは別にしなきゃいけない.
AIエージェントを使い分けることで,分人化はむしろ促進されるだろうというふうに思っています.AIエージェントはこの10年で考えても進歩はする.ただ完全に人を置き換えるという訳でなく,いろいろな状況に特化してくるのであれば,その特化したAIエージェントとうまくつき合うやり方になる.
増田 AIエージェントの進歩でいうと,現時点ではある程度のハルシネーションは防ぎきれないとか,中小企業のような小規模の組織でAIエージェントを使う場合に,その運用でコスト的に厳しくなるといった話もあります.分人化で使うことができるAIエージェントに関する技術的な課題はまだあるのでしょうか.
武田 それは汎用AIを目指すからむしろコストが高くなるわけですね.この範囲でしか受け答えしないというほうが楽なわけです.ですので,分人化に対応する特化型AIエージェントが,先に社会で認められるほうがおそらくAI社会への早道なんですね.
分人化に対応するAIエージェントを認め得るかという時のポイントは,一番初めの話に戻りますが,つまり西洋社会と非西洋社会での差があると思います.日本では,「りんな」というマイクロソフトジャパンが作ったボットがあり,アメリカでは「Tay」というアメリカのマイクロソフトが作ったボットがありました.りんなは学習機能はなかったのですが,Tayはちゃんと学習機能がありました.ただ,Tayはもう公開数日で撤回されました.中国のマイクロソフトでもまた別のボットを作って,それも学習型だったのですがそちらはちゃんと動いているようです.
このようにボットへの対応にもやはり文化の差がある.アメリカでTayをオープンにしたらみんなが,こいつに何ができるのか,ということを徹底的に追及しました.これができる,これができないとか.それで悪いことをTayに教えたりもした.つまりこれは,ボットをもう人間だと思って検証をしている訳です.一方で,日本のりんなは別にそんな扱い方をされなかった.女子高生ボットのりんなといって,まあそういうものね,と.別にここで本当に女子高生として振る舞ってほしいなんて全然思っていない.女子高生っぽいことを答えてくれる楽しいボットだねと,日本だとそうやってボットが受け入れられる土壌がある.
日本だとそういう特化型のAIエージェント,このボットはこういうことしか答えません,というようなものでも十分に受け入れられる可能性がある.より知的な会話をするAIエージェントですといっても所詮はボットですから,日本のほうがそれがうまく普及するチャンスがあるのではないか.そうなると,使いやすくて,みんなが合意できれば,割と日本でそういったAIエージェントがうまく使われるのではという期待はあります.
増田 先ほどAIエージェントとセットとしての分人という話がありましたが,それぞれの分人の役割ごとのAIを整理して用意していくということですね.
武田 実はそういうふうに機能を絞り込めば,割とハルシネーションみたいなものも少なくできます.そうしていくと社会的に機能する.ただポイントは,そういうAIを作ることは可能であるけれども,それが本当に社会で使われるかというところです.日本にはそこにチャンスがあるということではないでしょうか.その展開でも,人に対する基本的な概念の違いが出てくるのではないかと思います.つまり西洋だと,AIは人間同等の知能になり,その先には超知能がくるという言われ方をしています.その超知能たるところは,個人の知能を超えるところにあるというように,ここでも個人が出てくる.個人を超える,超えないという議論をしているわけですが,日本ではあまりそういう議論は広がらない.それが盛り上がったのはあくまでアメリカであって,知能を超える,超えないみたいなことは,日本の社会ではあまり問題にしていないと思います.
西洋的な個人の概念の一番の根源は,キリスト教的な考え方になります.キリスト教において,神と対峙する人というかたちで定義される人.人は神様が特別に作られた存在なので動物とは違う何かである.そこに個人に込められた価値があると.一方で,そういったものは日本の文化とは違うので,日本では別に人だけが特別な知能を持っているという考え方はないわけです.先ほどのりんなのような中途半端な知能も認め得る.そこが大きな違いではないかと思います.だから日本にチャンスがある.少なくとも社会的に受け入れられる余地は大きい.どうしても西洋型だと,つい人とAIの対立構造を描いてしまう.でも日本ではそういう対立構造は特に意識されないと思うんです.
分人支援のAIエージェント・サービス
増田 AIエージェントを活用する分人においても,いろいろな文脈の上に特化したAIエージェントを提供するプラットフォームとしてのサービスが必要になるのでしょうか.
武田 サービスという概念の定義の仕方によりますが,サービスは人が関わることが結構大きくて,語源的には,人がサービスをする,人が何かをやる.今はそれが広がって,人が関わらないものもサービスに入っていますが,根源的なサービスとしては人が関わる.この人が本当の人なのか,AIでいいのか.これは実は,日本的な考え方でいえば,別にそれが人であったり,人のようなものであったりしても構わないわけです.そこに壁を作る人はそういない.なので,そこにAIを交えたサービスを作るということは十分にあり得る話だと思います.われわれはそういうことに関して,むしろ柔軟に考えていけばいいだろうという気はしますね.
増田 以前,百貨店の方と話をして,百貨店にどうやってAIを入れていくかという議論をしました.百貨店は品数が多すぎて人のスタッフが全部を把握しきれないレベルになっています.そのあたりを探す作業はAIにやってもらいたいということもあるようです.
武田 サービス業はそんなに詳しくないですが,百貨店に来る人たちの多くにとって,百貨店の価値はわかった人が対応してくれているという安心感,これはつまり,わかった人というのは本当にわかるかどうかは別に,人が対応してくれる安心感.スーパーマーケットに行けば何でも買えるけれども,それは自分で探さないといけない.デパートに行けばそういう人が対応してくれる.そういう安心感もあるわけです.それを完全にAI任せにするというのは百貨店の望むところじゃないと思います.ただ,その中間という形もあり得るわけです.例えば AIエージェントと担当者とお客さんの3者で対応してもいいわけですね.何かこういうものがありますかとお客さんに聞かれた時に,担当者が分からない場合,AIエージェントに聞いてみましょうみたいな.それでAIエージェントが今こういうものがあります.でも,そこで担当者が,いや,それはお客さんの思っているものと違うよ,みたいな突っ込みを入れてもいい.日本では,それを裏でやるのでなくて,さらしちゃって大丈夫だと思います.完全に人といってしまうと,人が裏でAIを使って伝えることになる訳ですが,むしろ,それをさらして3者で対応してもいいわけです.その3者でやる時に,お客さんのニーズの汲み取り,AIからの情報のくみ取りをうまくやってくれる担当者はすごく信頼されるでしょう.だからAIを裏方として使うのではなく,表に出す.ただ,AIに任せっきりにもしない.そのぐらいのやり方もあると思います.
増田 AI自体が独立したスタッフになるのか,それは分人型社会においては,ビジネス側のスタッフの分人みたいな位置づけになるのでしょうか.
武田 そういう意味では,先ほどの例の百貨店の担当者も,担当者の知識も踏まえたAIボットを作りたいわけですね.その担当者の日頃の行動を学習して,担当者Aのボットを作ります.それが,担当者Bだとまた違うボットになる.そういうものを作って,普段は例えば,担当者Aのボットが対応するけど,ちょっと何かあると人間である本人が出てくるとか.そういうふうに仕分けてやると,担当者Aが職場を離れても,担当者Aのボットというのは,その職場にあり続けるかもしれない.あるお客さんは,私,あの担当者の人が気に入っているから,いなくなってもこのボットを使い続ける,とか言うかもしれない.新任の人は,その職場を離れた担当者で学習したボットで訓練されるかもしれない.そういった可能性が増えると思います.あるいは,例えば,あるフロアにいるときはAさんのボットで,下のフロアの人はBさんのボットになっているかもしれない.
増田 こういった働き方としてのAIが入ることで,人とAIの組み合わせから,AIにいろいろなロールを与えることができる.この時,それをお客さん側でちゃんと受け入れられるのかというところですね.
武田 そこなんですよ.お客さんから担当者を出せ,ボットじゃだめだ,あるいは,分人じゃだめだぞ,本人が出てこい,とか言われると,困るわけです.例えば,会社で契約するためには,それこそ担当者は飲みに行かないと契約できないとか言われてしまうような,分人的概念じゃなくて,全人格的に信頼できないと契約できないという人が世の中にいないとはいえない.ただ,会社員で働いているのに,おまえの全人格を信用しなければ契約できない,なんて言われちゃうような,そんな世界はちょっと望む社会ではないのではないかと思います.そういう意味では,社会的にはむしろ分人化のほうが望まれているのではないでしょうか.個人の生活という面と,社会的な生活を分ければ,社会的には間違いなく分人の方向.それはもう近代社会が生まれたときから,そういうふうになってきたわけです.役割が分かれることによって効率的に社会が回せる.仕事を家内工業みたいに家でやるのではなく,会社員的に行うことで,効率が上がったという社会の方向があると思いますが,分人型社会はむしろそれを加速させるだけであって,別の方向に行っているわけではない.
増田 日本のほうがアメリカなどの西洋諸国より,特化型AIエージェントが受け入れられやすい可能性があるという話がありました.一方で,例えば,先ほどの百貨店の文脈でいうと,百貨店にはAIのプログラマーがいるわけではありません.分人をサポートするAIエージェントをどこかで作る必要があると思いますが,そういう分人サポートのAIサービスは実現し得るのかという点はどうでしょうか.
武田 できるのではないでしょうか.もちろんまずは,単純に物知りエージェントみたいな,データベースを学習することはできるでしょう.次に,現場の担当者の振る舞いを学習させるということも技術的には可能なはずです.例えば,担当者の音声などずっと録画し続ける.お客さんの声が入っちゃったらどうしようというのはありますが,そこも許可が得られるなら,そういうのを全部取り込めば,そういった特化型のAIを作ることは可能だと思います.問題は,お客様稼業の場合,相手先があるので,相手の部分のデータを取ってしまっていいのかなど気になるところはありますが,そこは許可を得た人だけでしょうか.そういったことをやれば,できなくはないと思います.今のAI技術からすれば,それはそんなに遠くはなく,データさえあればという話になるので,むしろそのデータがどうやって取れますか,といった話だと思います.
それが社会に受け入れられるかどうかだと,日本の場合サービスとして受け入れやすいということだと思います.実現のときに技術的にどうするのかは別問題ですが,サービスとして割とあってもいいと言ってもらえるのではないかというところはあると思います.
もともと人から始まったサービスに対して,人プラスアルファになれるというところで,新しいAIエージェント的なアプローチが入ってくる.それ自体は,分人とはあんまり関係がありませんが,社会がそういうサービスを受け入れられるかどうかというところでいうと,まさに分人的な社会のほうが受け入れられやすいので,われわれの社会のほうがチャンスはあると言えるのではと思います.
増田 サービスにどうやってAIを入れていくのかという観点では,既に日本ではデジタルアバターやロボットの活用などの事例もありますね.
武田 まさにVTuberは自分を学習させるということを彼らはデジタルの世界なので割とやっていて,この方向に近いですね.VTuberは自分のデータが全部ある.それを全部学習させればいい.彼らもそのうちそれを売ったり,サービスにするのではないでしょうか.要するに,もう中の人がいなくなっても勝手に回るVTuberというエージェントができるということですね.
サービスとしては,まさにVTuberがやっているようなことが先をいっている気はします.もともとVTuberは,AIとは関係なく,単に顔と動作が置き換えられていた.つまり,それを人と切り離してもよい.ある種,社会実験的にああいうものが受け入れられるということがわかったわけです.少なくともYouTubeの世界ではリアルである必要はない.あの世界では,いけるどころか,場合によってはむしろ普通のYouTuberよりいいということもわかった.
今のVTuberの人は別に表に出る必要はないわけですが,それはわれわれが「個人」という存在に縛られていない,あるいは暗黙的に「分人」のような観点をもっているから,受け入れることができていると思っています.VTuberはおそらくアメリカだと,日本好きの人しか好きじゃないのではないでしょうか.いわゆる日本のアニメとかが好きな人だけが受け入れていて,それ以外の人たちには多分全く受け入れられていない.受け入れられるというか,よくわからない存在でしょうね.ちゃんとやっているのであれば,顔を出せばいいのにぐらいに思っているでしょう.その社会でVTuberが受けるのは日本カルチャーに既にさらされた人ぐらいですよね.
増田 そういった点ではアジアだとタイなどはVTuberの受け入れでは日本と似ている感じがあるかもしれません.
武田 アジアもそうですね.最近,VTuberが舞台に出たりするようにもなりました.まさにバーチャルがリアル化してるわけです.この辺り,日本では初音ミクで既に試したからやったわけですよね.初音ミクもバーチャルだったのに,日本ではコンサートを開いちゃうというあり得ないことができたわけですね.
インタビュー後の所感
本インタビューを通じて,「分人」という概念が,AI倫理やデジタル社会における人間観の前提そのものを問い直す理論的枠組みであることが考察された.西洋的な「個人」を基礎とする発想では捉えきれないSNSでのインフルエンサーやVTuberの活動,また,今後のAI社会の主軸となるであろうAIエージェント・サービスの社会的な受け入れといった観点が,分人型社会の観点で説明し得る点が示唆的であった.特に,AIエージェントの活用を伴う分人の議論では,知性の洪水が危惧されるAI時代における人間の負担軽減や新たな価値共創の可能性が提示され,また,日本の社会が持つその文化的土壌が新たなAIエージェント・サービスの展開において重要な意味を持つという主張は今後の日本のAIサービスを考える上で重要な論点であると考えられる.
参考文献
Bruno, F., & Rodriguez, P. M. (2022). The Dividual: Digital Practices and Biotechnologies. Theory, Culture & Society, 39(3), 27-50. doi: 10.1177/02632764211029356
Strathern, M. (1988). The gender of the gift: problems with women and problems with society in Melanesia (Vol. 6): Univ of California Press.
石塚 満,武田英明,神嶌敏弘 (2001).映画「AI」をめぐって.人工知能学会誌,16(5).
平野啓一郎 (2012).私とは何か.講談社.
著者紹介
武田 英明
国立情報学研究所教授.工学博士.東京大学大学院修了後,奈良先端科学技術大学院大学を経て現職.人工知能,設計学,学術コミュニケーションの研究に従事.
増田 央
京都外国語大学国際貢献学部准教授.博士(経済学).京都大学大学院修了後,北陸先端科学技術大学院大学を経て,現職.情報技術活用の観点での経営学,マーケティング,観光に関する研究に従事.



